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 遺稿  私 の 文 学 史       貴 司 山 治  伊藤 純・編注   


           「私の文学史」について    伊 藤 純

「私の文学史」は、父・貴司山治が、昭和四十三、四年頃から書きためてきていた、自叙伝風の草稿である。
 その後、貴司は、昭和四十七年脳卒中で病臥し、翌年死亡したため、草稿は中断しているが、その時点ですでに千枚以上の枚数に達している。ただ、この草稿は、長期間にわたって、多分、主として記憶をたよって書かれたためもあってか、文意や構成に多くの混乱 が見られる。また、くりかえし加筆、訂正、削除、配列がえの行われた跡もあり、それが完全に整理されていない所がある。
 ここでは、それらの点について極力整理編集を加え、人名、年月 日、場所などについてもわかる限り訂正、脚注、説明などを加えた。

<編集履歴> ●1974年(昭和49年)3月整理編集の上雑誌「暖流」16/17号に掲載
          ●1999年9月パソコン収録に際して編者注記を中心に若干補筆修正


総 目 次 

<File 1>
第1章 我が文学的故郷
     1. なつかしい菊池寛
     2. 芥川龍之介に失望
     3. 泉鏡花と浜野英二
第2章 厳しいスタート
     1. 難波英夫のこと
     2. 朝日の懸賞小説に応募
     3.「ハマサク」と「花長」
     4. 大正から昭和へ
<File 2>
第3章 鳴門塩田労組と評議会
     1. 野田律太と国領五一郎
     2. 鳴門の塩田争議  
     3. 資金カンパ
     4. 山本懸蔵と「東倶知安行」
第4章 国領五一郎のこと
     1. 国領五一郎の来訪     
     2. 国領五一郎のその後   
     3. 特殊な人間のタイプについて
     4. 磔となった遠祖のこと
<File 3>
第5章 プロレタリア大衆小説
     1. 三・一五とその後
     2.「ゴー・ストップ」と「舞踏会事件」
     3.「プロレタリア大衆小説」の初一念
     4. 吉祥寺と牟礼(むれ)の森
第6章 作家同盟と無産者新聞
     1. 作家同盟の創立大会
     2. 無産者新聞執筆のきっかけ
     3. 作家同盟のこと   
     4. 柳瀬正夢との出会い
<File 4>
第7章 第二無新への資金提供
     1. 吉祥寺の新居    
     2. 福永豊功と日赤病院 
     3. 中野重治との初対面  
第8章 芸術大衆化論争
     1. 被告席の貴司山治   
     2. 蔵原惟人の“論告” 
     3. 昭和七年シンパ事件
     4. 豊玉刑務所未決監 

第1章 我が文学的故郷
        1.なつかしい菊池寛        ◆文学史TOPへ     

 昭和三年十一月、無産者新聞に、それまで講談社の娯楽雑誌や、諸方の商業新聞に、さかんに興味本位の大衆小説を書いていた新進作家の貴司山治が、突然「舞踏会事件」という七回連載の大衆小説を執筆した。
 それをみて面くらったのは、当時左翼作家のチャキチャキであった林房雄である。
 かれは朝日新聞だったかの文芸時評で「無産者新聞と講談社を両天秤にかけるとは大へんな怪物だ」という意味のことを書き、自から「左翼同調者」をもって任じていた新居格は、雑誌「新潮」で「かれはたしか私と同郷の徳島の男だと思うが、無産者新聞と講談社を二た股かけるとは……」と書いた。

 当時の朝日新聞や新潮をしらべたら、林や新居の書いたその時の文章がでてくると思うが、それほどのことにも及ぶまい。
 ただその時、私という作家の名がかれらにはそんなに遠い存在だったと知って、同じ文学者として何ともいえない隔絶感をおぼえたのを記憶している。
 それでいて私は、林や新居によって、そんなに怪物視された自分を、一度として他人に説明したことはない。四十年来、それには、口外できない秘密がからんでいたし、それが解除された終戦後には、とりたててしゃべり立てる必要もなかったからである。

 私が無産者新聞に執筆したのは、当時やや調子を下ろして、ずるずると安易な気持ちで書いたのにすぎなかった。何も特別の決心などはなかった。

 私が東京へ出てきたのは、時事新報の懸賞小説に当選して、その作品が大正十五年一月一日から新聞にのり出したので、もう大丈夫と見当をつけ、東京で文壇生活を始めるため、四月下旬に上京した。
 時事新報の懸賞小説には、第一席に池谷信三郎が当選し、私は第二席となっていた。
 池谷のは「望郷」というのであったが、これはべルリンに留学した日本の一青年が、ベルリン生活で右往左往するさまを描いたもので、ひどくエキゾティックな作品で芸術的香気も高かった。
 私のはこれに反し、兄妹が識らずに恋をして、あとで兄妹とわかっても恋情は残り、それをどうするか、ということを描いたストーリー本位の中間的通俗小説であった。

 はじめ、選者菊池寛の発案で、この懸賞小説は、三十回分の本文に全篇の筋書をつけて出し、それで予選をパスした者だけが、あとの全篇を書く、という規定で、これは菊池の持説によるやり方であった。
 はじめの審査は、時事新報でただ一人の学芸部記者であった佐々木茂索が、局に当って一人で鋭意読破したらしい。たしか三百何十篇か集ったのだから佐々木の労苦は大したものであったと思う。

 当選は一篇で、当時としては最大級の三千円という賞金だったので、おのおのこれを狙った。私は賞金はどうでもよかったが、時事新報という一級紙の懸賞に応募して当選すれば、翌日から文壇で食えるということに狙いをつけた。
 池谷のは、始めは「郷愁」ど題され、私のは「故郷」と名づけられたが、佐々木が「郷愁」を一等に推し、私の「故郷」は二等に決めた。菊池は何度も私の「故郷」を一等に推したが、佐々木は最期まで「郷愁」に固執した。
 菊池は佐々木の気持はよくわかるとうなづいたが、池谷の「郷愁」はすぐれた芸術作品だが、これでは大衆うけがしないと心配し
 「貴司の『故郷』ならば、ストーリーといい、書き方といいシロウトばなれのした大衆小説だから、思い切ってこの方にしたまえ」
 としきりにすすめたが、佐々木の芸術家肌なこころは改まらず、結局、池谷のが優秀作として残り、私のはそれを補う大衆小説として推され、三千円の賞金も二千円と千円にわけて二篇入選ときめた。
 ところが両作とも似たような題名なので、菊池が一と晩も二た晩も頭をひねって「郷愁」は「望郷」となり「故郷」は「新恋愛行」となった。
 むろん私は、新聞社がはじめの約束に反して三千円を二人にわけて、私には千円をよこす、としたのや、人の作品を入賞と引きかえに題をとりかえたりしての発表に、大へん不満足だったが
 「改題には苦心したよ、どうだ、いい題だろう」
 といって打ちあける菊池の顔をみては、小言もいえなかった。

 銀座西六丁目の鍋町だったかにあった時事新報社に、佐々木を訪ねると、かれは「春眠」という処女出版の出版記念会にこれから出席するのだと、黒紋服に袴と白足袋といった姿で出てきて
 「時間がないから、また来てくれ」
 と大変無愛想な顔でいう。

 私は菊池寛の門下に飛びこんで大衆作家になろうかと考えた。
 それには、純文学の池谷信三郎を推重する佐々木茂索に対して、通俗文学の書ける貴司山治を擁護する菊池の厚意を身にしみて感じたからである。その時すでに、菊池は文壇の大御所であつた。
 当時の文芸春秋社は麹町にあつた。たしか死んだ有島武郎の家を一時借りていた。
 時事新報社から廻って行った文芸春秋社は打って変って雰囲気がちがっていた。

注) 日記で見ると、初めて菊池寛を訪ねたのは、実際は本格的上京の一月前、三月の予備的な上京の折りで、文芸春秋社ではなく、雑司ヶ谷の自宅を訪ねている。(大正十五年三月九日)  
  また、その同じ日に引き続き田端の芥川龍之介を訪ねている。

 その日にも、横光利一、片岡鉄兵などなどが見えていたようであったが、菊池は和服で、兵児帯のほどけかかったのをぐるぐると巻きつけ、将棋をさしていたのを中止して私に応接した。
 話している最中に取次の青年が応接間に顔を出して
 「水守亀之助さんがみえました」
 と告げた。
 私が玄関に出て靴をはく時、菊池は、和服にまきつけた兵児帯のほどけたのをひきずって見送ってくれたが
 「先生、しばらくです」
 と水守らしい中年の男が土間に立っていた。
 菊池はアゴをしゃくって
 「君、紹介しておく。これがこんど時事新報の懸賞小説に当選した新進作家の貴司山治君だ、やさしく批評してくれ」
 私は水守にも一礼したが、私のことを東京で「新進作家の貴司山治君」といってくれた最初の人は実に菊池寛であった。かつ、その人は、私が辞去して外へ出ようとすな時
 「ちょいちょい来給え」
 と声をかけてくれた。

 その一言は、もう入門を許してくれた言葉なのだ。
 その上、菊池は池谷や私の選者なのである。横光とか川端とか片岡とか(かれらは同じ時事新報の短篇小説の入選者)よりも、池谷や私は、もっと直系の菊池門下といっていいのである。私は自信と誇りを以って、この文壇大御所のもとへ、大手をふって出入りすればいいのだ……
 ところが、私はその後、二度ばかり、麹町へ移った文芸春秋社へ菊池を訪ねただけで、その子分になることができなかった。
 その一番大きな動機は、水守亀之助が菊池に「先生!」とよびかけた一言をきいたためである。
 私はそれまでは、大阪時事新報の学芸部記者として、「法城を護る人々」を書いた松岡譲、かつて「遊蕩文学撲滅論」で天下を騒然とさせた赤木桁平の池崎忠孝などを、まるで友達のような親しさで口をきいていた。それは私が、大阪の新聞記者として、東京などから来遊する文学者を訪問して、取材する時の自然の態度なのである。
 松岡や池崎どころか、谷崎潤一郎が「蛇性の淫」の映画撮影できたとか、六代目菊五郎が二十七年ぶりに大阪に出演するとかの時にも「やあ」といって無造作に往訪する記者性が、早くから身についてしまつていた。

 谷崎や菊五郎はともかく「法城を護る人々」第一巻を書いて評判の高かった松岡譲は、夏目漱石令嬢との結婚で、久米正雄を失恋に陥れたといって、久米の「破船」などでまるで悪党のような評判を立てられ、それに気を腐らしたのか、大正十三、四年ごろ、しばらく京都にきて、鹿ケ谷の浄土寺町に一戸を借りて住んでいた。
 ちょうど私は、大阪時事の記者として、東京本社の時事新報にのせる原稿を書いている最中だった。
 新聞記者としてではなく、無名の文学青年として絶えず松岡を訪問し、筆子夫人や三人の子供たちとも家族的に親しくなった。しかしやはり大正時代の新聞記者のクセで、文学的にももちろん、年齢的にも先輩の松岡を、一度も先生とはよんだことがない。
 そして、松岡と菊池は友達同士である。
 その一方を先生とよんで一方をそうよばないのでは何ともへんてこなことになる。
 それに、松岡のように、年下の単なる友達としてつき合ってくれる人と、菊池のように、本人は何も要求しているのではなくても、行けばほかに大ぜいの取巻のいる中に加わって、いやでも「先生」といってへりくだる姿勢をとらなければならぬ先輩には、どうもそこがまるっきりウソになって、頭を下げて行けないのが私の情けない性分であった。

 おまけに菊池は、将棋とかマージャンとか競馬とか、賭け事が好きで、現に私がはじめて訪ねた時は、将棋に熱中していて、それを一時間ぐらい見物させられた。菊池門下はみな、賭け事の興味で文芸春秋社に蝟集しているらしいので、その菊池という大先輩には、ひどく魅力的であったけれど、賭け事きらいの私は、とてもその門下に加わっては行けなかった。
 そんなわけで、上京した作家生活の第一年目に、私は菊池入門の落第生となってしまった。

         2.芥川龍之介に失望      ◆文学史TOPへ  ◆資料館TOPへ   

 私は菊池寛入門をあきらめると、そのつぎには必死の思いで芥川龍之介を訪ねた。
 芥川は、当時、プロレタリア文学に関して若干の発言があり、窪川鶴次郎、同いね子、中野重治などがしばしば訪ねているとのことで、それとは別に私は非常な芥川のファンでもあったので、同じ東京の文壇で飯を食う以上、芥川はぜひ一度面識を得ておくべき相手であった。

注) 前の注の通り、芥川訪問は大正十五年三月九日午後のこと。雑司ヶ谷の菊池寛を訪ねた足で、芥川の所に廻っている。
   日記にも、対面の印象に違和感を感じたことが書いてあるが、その割には夕方まで、相当長時間居ずわって話をきいたようだ。

 私は、芥川に入門する意志はない。だから芥川のところへは一通の手紙を持って行った。松岡譲に書かせたものである。
 うす曇り日の午後であった。
 田端の芥川の家は寂然としていた。恐る恐る玄関をあけて案内を求めると、細君らしい女が「ちょっとお待ちを」といって引っこんだ。
 いるらしい。私はこわくなった。
 あの秀麗をきわめた芥川と、すぐ逢えるのだ。
 かれの、上背の高い鶴のような姿勢で見すえられている自分の姿を想像すると、恐怖に全身がふるえた。かれの面前で、自分の今までの無学ぶりがまざまざとバクロしてしまうことの恐怖なのだ。

 ……衣ずれの音がして、うすぐらい廊下にさきの女があらわれて「どうぞ」という声がかかるまで、私は芥川に会う恐怖にふるえていた。やがて、女によって廊下に引き上げられ、二階に通された。
 二階には誰もいなかった。せまい八畳ほどの二階は、日本座敷を洋式にふりかえた日本間で、主人公のらしい机の上に、若干の原稿用紙とぺンがなげ出されている外には、人気がなかった。
 やがて私の上ってきた方角の襖があいて、芥川らしい人がはいってきた。
 そちらの方で人声がしていたのだが、それが芥川のいる場所であった。芥川はなかなか着席せず、私のぐるりを歩きまわって
 「あなた、物を書く人で別所梅之助という人をご存じですか?」
 「名前は知っていますが、読んだことはありません」
 と答えると
 「そうでしょう。そうですとも。みなそんな風にお答えになります。去年はその人の書いた本が五万部とか売れて、ベストセラーなんですって。別所って、カトリック教徒ですってねえ」
 しばらくそのへんを歩きまわって、やっと私の前のイスに腰を下ろすと
 「去年、たしかベストセラーになったのは、吉田絃二郎さんの『小鳥のくる日』でしたよ。これは十万部とか聞ききました。小鳥のくる日、ねえ。それが十万部とかいうんです。僕の本は『傀儡師』も『報恩記』も、初版もな二千部ですよ、それが一年たって半分しか売れていません」
 と嘆いて、しばらくするとまた急に勢をもり返したように
 「所が去年、ぼくの本を、一冊六百頁にして、六号で三段に組み、原稿用紙千枚ばかりを一冊一円で売るから、出さないかという話が改造社からあったんです。一冊一円でねえ。五万部は即時に売るという話なんです。
 そんな計画を立てても決して売れないから----と前記の例をあげてことわったんです。
 すると、そこの社長がやってきて、しきりにすすめるんで、『僕の本で損をしても絶対に弁償はできない。又弁償する力もない』というのに対して『それでよい』というのです。とにかく契約しろというので、印をおしたんです。
 十日もたつと、社長の秘書だという太った大きな男がとびこんできたので、いよいよ破産かと思ったら『改造社の現代日本文学全集は、十万部の予約ができました』というんです。
 僕には俄かに信じられませんでした。僕の読者が十万人も隠れていたんですかねえ。僕には、文学の読者というものがまるでわからなくなりました」

 安楽椅子にかけて話す芥川は、水色に近い藍微塵の単衣を着ていた。いや、よくみるとそれは唐桟の単衣を素肌に着ているのである。
 私は阿波の人間だから、藍染め織物の知識が多少あった。
 大正年間に、阿波藍は絶滅して、水色に近い藍染めなどは、すべてドイツ舶来の化学染料のインジゴにとって代られてしまった。それは外見はずっと時好にあう濃紺色で、四、五月ごろになると、インジゴ染めの木綿浴衣が一反一円か八十五銭位で濫売されていた。
 そういう時代なので、わざわざ浅葱色の唐桟などを着ている人は、よっぼどの通人ということになるのだが、私は却って芥川の服装に疑いを抱いた。
 というのは、唐桟とは、昔、唐天竺から輸入された細かい立縞の木綿であって、木綿とはいいながら、糸のより方、原綿の選び方は絹にもまさる逸品で、その肌ざわりのよさは天下一品と称せられた。「唐桟考」という本を書いた人があって、それによると昔の本物は古渡り唐桟といって珍重されたという。
 だが、そんな本物の唐桟はもう絶無に近く、江戸時代には、将軍だけが常用して涼しい顔をしていた。
 大名がそれを真似て、将軍のひそみに倣い、八王子でニセ唐桟が織られるようになって、それが町人の風流人にも伝わり、唐桟の着流しに雪駄をチャラつかせて吉原に遊ぶのをしんからの通人とした。
 やがてそれは、将軍の威を穢すものとされて、町人の唐桟着用は禁止されたとか……

 坊主可愛いや還俗させて、こはだこはだの寿司でもにぎらせたい……という江戸の俗謡があるのは、こはだという魚を三枚におろして酢につけたのが昔から江戸人の好みとされているけれど、実はこはだの肌の色が、本物の藍微塵か唐桟によく似ているので、唐桟着用を禁じられた天保ごろの江戸の町人が、うっぷんばらしにこはだのすしを愛用した、というウラがあって、右の俗謡なども、江戸っ子のそのへんのケチな抵抗をいくらか含んでいる歌かと思う。

 何もそんな話までここへ書かなくてもいいのだが、私はその時、芥川の着ている唐桟の単衣に、はじめは感服し、少したっては何だか滑稽に思えてきたのである。
 芥川には、たとえば「戯作三昧」「鼠小僧次郎吉」などの作品があるように、又ある作品の本文中で「京伝三馬の伝統に忠実ならんと欲するわたしは」(文反古)と書いているように、かれには、江戸の戯作者気質を受けつごうというところがもとからあった。
 「戯作三昧」は馬琴の戯作生活を描いたものだが、私はそのころから馬琴は江戸戯作者の正統ではないと擯していた。
 江戸文学の正統は、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦と伝わる風流酒落者のやからである。その源は風来山人の「志道軒伝」、いいかえると町角の張扇師の精神の凝り成したものの末裔である。
 芥川が、馬琴を描いた「戯作三昧」の作者でありながら「京伝三馬の伝統」に忠ならんと誓っているのは、何かの間違いである……と私は思っていた。
 芥川の知識の豊富さはおそるべきものがあったが、それを活用するアタマの冴えには限度がある。

 たとえば「文芸と階級問題」との関係は「頭と毛生え薬との関係に似ている。もしちゃんと毛が生えていれば必ずしも塗る事を必要としない。又もし禿げ頭だったとすれば、恐らくは塗っても利かないであろう」という「毛生え薬」という「澄江堂雑記」のなかの小文などはわかったようでわからない。
 それは要するに「階級問題」となるともはやまともにはわからず、この作者にしてこの程度の理解しか示しえない、ということの証拠に外ならない気がした。
 総じてこの時代の人々には、共産主義者が天下をとれば中間階級の者(芥川のごとき)は非常な不幸に遭遇する、他人を搾取するすべての手段は禁止され、他人の搾取によって貯えられたすべての富は剥奪される、中間層はその翌日から裸一貫となって働かねばならぬ----といった考えが行き渡っていた。

 昭和四年頃のことだ。
 作家の私が早稲田大学によばれて、一場の講演をたのまれた。私は講演でこんなことをのべた。
 「わが友浅原六郎君は、自分は借家を十五、六軒所有している程度だが、共産主義革命になったらこれらはすべて没収され、公けの機関に取られてしまうものだろうか、と真剣になって私に質問した。
 私は答えた。
 共産主義革命の第一の狙い所は、そんなところにはない。狙いはまず大産業の廃止(国営に移す)ということで、その余剰利益は社会保障に廻し、みなが楽に暮らせるように世の中のつくりをやりなおすのだ。
 中小企業家は処罰されず、十六戸の借家は公けの機関に返還することによって反対給付をうけ、損することなく生活できる----これが共産主義革命だ、と説いたら、浅原は『それは君からきくのが始めてだから、その時の保証人になってくれ』といって、喜んで後日、仲間になった……」
 という講演をしたら、あとで早稲田の学生から
 「そうなんですか? 我々は浅原六郎をも味方と思い、つき合わなくてはならないんですか」
 という風にきかれた。
 共産主義に対する私の信認は、かくの如く単純であった。

 芥川の共産主義に対する信認も、私以下だと思った。
 もちろん、共産主義に対する信認の厚きを期待して芥川の家に行ったのではない。むしろ、それとは別個のかれの文才を怖れていったわけだが、先づその風貌に、がっかりさせられた。
 もっとも芥川は、私の行った翌年に死んでいる。風貌のあがらなかったのも無理はない。
 その点は差引くとしても、芥川は私よりも小柄であった。出てくると、はじめから刊行部数の話をするし、あちこち歩き廻るし、たえずこちらの顔を見て見ないようなふりをして気取るし、どうしたのかと思うほど小人物化していた。
 それに、着ている唐桟の着物である。
 まがいものの唐桟を(まさか古渡り唐桟の本物があろうはずがなかろうから、要するに現代の唐桟はすべて模造品である)、江戸の町人が「上様」に対する意地をみせるために着たのには相応の意味があったろうが、それを大正十五年に着ているというのは、大きに時代錯誤というべきである。

 かれは、時代物の作家が、物のわかった読者の前にでて閉口したように、窮屈にかれ自身のすわる机の前のイスにかけて、ジロジロと私の方をみながら何かを哀願するさまにみえた。
 私はふと哀れになってきて、白分の青春で相手のすぎ去った青春をオドかしている工合なのを恥じた。
 かれはそのつぎに、京都に住むに都合のいい家はないかときいた。私は木村毅が書いた、岡崎のモルガンお雪の家が空いていると答えた。
 芥川はその間取りを訊ねた。
 間取りは私も、中へ入ったことはないから、外からみるだけだと返答した。外部から見る限リモルガンお雪の家は……芥川には物々しすぎて、第一広すぎる感じであった。
 芥川は京都在住ということを真面目に考えていると見えて、しきりにきいた。大半空想の間取り図を書いて与えると、熱心にそれを眺めていた。

 私が芥川家を辞したのは、あたりが暗くなってからであった。私が辞し去ろうとすると、急に
「神代君、神代君……」
 と芥川が隣室をよんだ。
 神代種彦はその時までいて、婦人記者と話していた。はいってきて私を送り出した。

        3.泉鏡花と浜野英二     ◆文学史TOPへ  ◆資料館TOPへ   

 確かその帰りぎわであったと思う。私は
「あなたの作品は全部読みました。お嫌でしょうが、二、三質問したいことがあります」
 といって、それまで胸に抱いていた一つの疑問を芥川にぶつけてみた。
 それは泉鏡花に関することであった。
 ----何故あなたは泉鏡花を愛読するのか、あなたにしてはそれが自分の文業を養うどのような結果になっているのか----と少し言葉厳しく言い寄ったのである。
 芥川はさも困ったような難しい顔になったので、私はやさしくいうために
 ----あなたの文章にあらわれた有識さと、泉鏡花のそれとには、何等共通点がない。あなたの文章から泉鏡花を連想することは困難だ、不思議に思う----といいなおした。
 私は、芥川以前から泉鏡花をひと通り読んでいた。一種独特の描写で、用語の難解なクセのあるところなど、読めばさわやかな後味がのこるのなど、鏡花好みの生ずるところだろうけれど、それが私にはわずらわしい。およそ芥川氏とは縁も由縁もない文章だった。
 ところが、話しているうちに、その芥川が
「(あなたが)自分を崇拝するのは、ぼくが泉鏡花を崇拝するのと似ているんですな」
 といったのがいつまでも心にひっかかった。
 泉鏡花ときくと、特別心にひっかかるのには少しわけがあった。

 鏡花好みという言葉ができたくらい、泉鏡花は大正昭和の時代にも一種の好みをもってむかえられていた。「辰己巷談」「湯島詣」「高野聖」「歌行燈」などが発表されたのは、明治も未であったが、これらにより水上滝太郎、谷崎潤一郎、永井荷風などの推す所となった。そして、この鏡花の作品が世に好まれたのは、かえって大正期のことであった。
 そして、浜野英二という私の同郷の先輩の名が、鏡花の年譜に登場してくるのもこのころのことなのである。
 私は、鏡花好みとは縁のない人間であったが、鏡花好みの実人生を、鏡花の弟子の浜野英二から教えられた。
 浜野は、眉目秀麗で、映画俳優のなにがしによく似ていた。
 家は酒類販売業で、仕事着に身をやつしてよく店頭で働いているのを目撃したものだが、かれは「浜野の英ちゃん」で故郷の遊里でも通っていた。とてもかなわぬ相手と思い、敬遠して近づかなかった。

 その内に、誰からともなく、少女大森ツヤ子が、かれに欺かれて一朶の花と散った、とのうわさをきいた。
 大森ツヤ子は、私の友の菊池なにがしの教え子であった。
 私は菊池なにがしを学校に訪ねて、大森が眼の円い、愛らしい貌をしているのを知り、その父が撫養の町で精米所の労働者として働いている内に、機械に手を噛まれて倒れ、半年以上入院し、家の貧を補うため身を狭斜の巷に売って、三味線の稽古をしつつあることをきいた時から、かの女をひそかに恋いした。
 青白い顔をして、何の教養もなく、少しハナ声で三味に合せて歌などうたいつつある場所へ行き合せ、かの女をつれ出し月見草の咲く岡崎の砂丘などを歩きまわったり、撫養の勧工場で、女の子のほしがるモノを買ってやったりして、幼稚な愛に耽った。

 その内に大正九年の夏、私は故郷を出てしまい、大阪で新聞記者をしているうちに、少年期の夢を失った。
 そのころ、大正十年か十一年の春ころ帰省して、ツヤ子に逢ったが、ツヤ子は一人前の若い芸者となり、大阪にかえる汽船へ押し掛けてきて何か物問いたげにするので、自分に気のあるものと思い、その夜深く、かの女をつれ出して大阪に赴き、道頓堀北岸の旅館に泊った。
 旅館の女中らは二人を相曳き客とみて一緒に風呂に入れ、上ると一つ蒲団に泊めた。私もこの時までツヤ子が当然私の意にそむかず、私の意に応ずるものとして、十六才であったかの女の肉体に手を触れた。するとかの女は始めて激しく拒否の態度をとって私を拒み
 ----自分をどうするつもりだ----
 ときくのである。
 ----もし、自分を細君にするというのなら応ずる。でなければ拒否する----
 といって身をかたく持しているのである。
 ----なぜ、はじめからそういう決心をしているのなら告げなかったのか、旅先きの宿屋で同衾する時となって、それをいうのはオカしいじゃないか----となじると
  「----自分は、浜野英二に三年前に同じ目にあわされたのだ。
 欺されて、その時は細君にしてくれということを言ったら、うん、するとうまいことをいい、久米正雄の細君も芸者だったが、おまえも久米の細君とつきあわなければならぬ、とさまざまな芸者の素振りをのべ、そのとおり出来るかときくので、やってみるといったら、自分は今、泉鏡花の原稿の校正をやっているが、おまえはその手助けができるかときく、泉鏡花って何ですかといったら、自分の崇拝している有名な小説家だとのことなので、小説ぐらいなら読めばわかると答えたんです。
 すると、どうかなあ、と何度もいい、鏡花全集の校正の手伝いができるようにならねば駄目だといって、二年先に浜野英二の細君になる約束をしたんです。そして身を許したんです。
 すると浜野は、うまいこといいよって、いろんなことをするんです。
 これは高野聖の主人公のすることだとか、こんな風にするのが婦系図のお蔦のする技だとかいって、いろいろなことを教えるんです。そして夏の終るころになると、あたしをつれて東京に行き、自分のつとめている鏡花先生の家や、春陽堂や久米さんの家を訪ねて廻り、又来年迎えにくるからといって送り返したんです。
 あたしは来年を待ちました。
 来年が来々年になっても何のたよりもありません。
 手紙を出すと、返事はくるけれど、みなあたしが英二さんのヨメはんになると可哀想やというてだれも賛成せん、もっと勉強しなきャあかんという返事です。
 その内、お父さんが死んで英二さんは故郷に戻りました。家の商売をつぐいうて、このごろすっかり家業の勉強をしよります。わてとの約束も忘れたのか、プツリともいわんようになってしまいました。
 わても欺されたんやおもて、あきらめております。
 その内貴司さんが有名になったんで、この人ならどないいうやろと思てみましてん。貴司さんのいうことは、又違ごていて、あんたは正直です。うちがとてもあんたのヨメはんにはなれんいうことを知っていやはって、はじめから約束しなはれしまへんのや」

 私は、浜野の、かの女に向けて取った行為が大体妥当であることを悟り、大阪道頓堀北岸の宿ではついに手出しがならず、翌日はかの女を奈良ホテルにつれて行って泊った。
 その夜もかの女の語るのは浜野英二と、浜野英二が崇拝している泉鏡花の作品の筋書きばかりであった。私は一と晩中かの女から、泉鏡花の作品の筋書き話をきかされて、まんじりともしなかった。
 その朝、私は大森ツヤ子を大阪につれてかえり、無事解放することで、手を触れないでしまった。
 やかましくいえば、手を触れることぐらいはできたであろうが、私は浜野ほど年を取っていないし、嘘もつけなかった。又、浜野ほど好男子でもなかった。
 そんな男が浜野のあとへ廻って、浜野以上の嘘をついて下手に口説き落とす、といった格好がいやであった。
 私が睡眠不足の頭で、大阪河口から汽船に乗せてかの女を送り返す時、空は曇っていて暑かった。その印象のみが、もりもりのこった。私は大阪河口でかの女を汽船にのせて送り返す時、はっきりと失恋を感じとった。
 それは大正十年か十一年の夏という頃であった。

 それから何十年かたって、昭和三十何年かの春である。
 私は昭和十三年か四年に結婚した今の女房をつれて徳島に帰り、伊賀町四丁目の福本楼に泊った。戦災で鳥有に帰してしまった徳島市の旅館のうち、ここはひとり戦災を免れて昔風の残る宿であった。風邪をひいていたので昼間中寝ていた。
 すると誰か上ってくる足音がする。
 間もなく、私の寝ている部屋をあけて「や、失敬」といって階下へ下りる音がした。
 私が頭をあげてよぶと、その男は階段の途中から引き返してきて
 「あんたがここに泊っているときいたので、ほかの用できたんやけど、ちょっと訪ねてみた」
 という。もう六十あまりの老人である。私も五十いくつで似たような老人である。
 「誰や」とおき上ると「浜野英二だす」という。
 私はなつかしかった。
 三十年以上たっているのだ。おき上った私が浜野を引きとめて
 「一度会いたかった。どうしているんだ」
 ときくと
 「僕はもうこのごろは、家の職業に力を入れて文学のことは忘れて暮らしとる。あんたの名を知っていたが派が違ごうし、怖いし、逢いとうなかった。だけど今日ここへきてみると、あんたは年をとっていて、そんな怖い人やあれへん。一ぺん会うてみい、というので上ってきたんや」
 とのことである。
 「よう上ってきたのう」
 というと
 「ここは、わしのヨメはんの実家や」
 とのこと。

 私は火鉢の火をかき起こして
 「君とは不思議なご縁があるねんやな。君にきくが、大森ツヤ子という女の名を知ってるかね」
 というと、大森の名は忘れていないとみえて、かれは少し勢いがくじけたが妙な声になって
 「うん……知っとる」
 と答えた。
 「かの女はどうしているだろう」
 「もとの家にいるはずだよ」
 「もとの家といって、清光座の川続きの南浜かよ」
 「うん、そこは実家だが、ぼくのいうもとの家というのは、林崎の八木の家だ」
 八木は待合だ。
 「今いくつだろうな」
 「ああ、白髪のばあさんだ」
 「時々逢うのか」
 「いや、逢うたことはない」
 というのが苦しそうにきこえた。

 しばらくして、話題を泉鏡花に向けると、鏡花に対するかれの情熱は止まらなかった。かれは鏡花をほめ千切り、鏡花を無類の名文家だとほめた。今も心酔していると言う。
 私は、かれが今も大森ツヤ子に心酔しており、今も時々逢っているかのような幻想にとらわれた。私は鏡花が憎くらしくなった。
 はじめから私は鏡花好みではなかった。
 そこへ大森ツヤ子のことが出てきて、浜野英二が介在するため、すっかり嫌になった。浜野の鏡花好みは本物で、鏡花の家にとびこみ、書生に採用されて通勤し、全集の編さんを托されたのを見ると、かれの鏡花好みには容易ならぬ物があると思った。
 私は、芥川の家で鏡花の名をきかされた瞬間、私自身の失恋と、文学的になぜ芥川が鏡花にいかれてしまったのかと、その不可解さに悩んでいる自分を見た。

 かれの「鼻」を読み「邪宗門」をよみ「傀儡師」「報恩記」を読んで、どの一行も鏡花の引き写しはなく、類似点もない。その芥川が何故鏡花にひかれるのか、そこがわからないのだ。
 鏡花に惚れても、文章を真似しないのは、その人の秘密なのだ。私にはそれがシャクにさわる。そこには立ち入れない。永久に門外漢だ。それが浜野英二と大森ツヤ子の間柄と二重写しになる。
 芥川が、私のあの詰問になんと答えたか、今ではどうも詳かでない。まともに答えようもなかったのだと思う。
 かれは、その半年後に死んだ。後でみるとかれは、鵠沼海岸に移転している。大正十五年(昭和元年)の夏であった。
 芥川の臨終間ぎわに、私はかれに会ったのである。

注) 芥川の自殺は、昭和二年七月二四日。貴司の芥川訪問は大正一五年三月九日。従って芥川の死はその約一年半後である。(大正十五年=昭和元年)


第2章 厳しいスタート

         1.難波英夫のこと       ◆文学史TOPへ  ◆資料館TOPへ   

 上京すると、まず住む所を探さねばならない。
 友人の堀の住む大森の奥を歩きまわったが、見つかるのは家賃三十五円とか五十円とかの高級住宅ばかりで、賃五円の借家などはどこにもみあたらない。

注) 難波英夫:当時東京毎タ編集局長。後マルクス書房経営。戦後国民救援会会長。昭和四十七年没。
注) 堀敏一:貴司のもっとも古い友人の一人。貴司は大正九年に大阪時事新報の懸賞小説で「紫の袍」が選外佳作となり、その縁で大阪に出て時事新報の記者となるが、小学校高等科中退という学歴の貴司が新聞記者になれたのは、当時時事新報にいた堀の引きがあったものと思われる。いわば、堀は、貴司を見いだし文筆の道に引き上げた大恩人であり、その後も陰に陽に貴司を引き立てた人で、戦後に至るまで長く交友が続いている。
この時期には、堀は、東京毎タ社会部長。後朝日に転じ、社会部長、出版局長など。戦後はアサヒイーブニングニュース主幹。貴司の死後、昭和五一年に氏の訃報を聞いた。

 がっかりして夕方ホテルの部屋にかえってくると、堀が訪ねてきて「借家はまだみつからぬか」と心配してくれた。
 「君に小説を書かせる話をしたのだが、難波のやつがどうしてもウンといわない。貴司はおれの莫逆の友人だが、その貴司の作品は時事新報に毎日載つている。時事新報にのる作家のものを、東京毎夕にはなぜいけないんだ、とおれもムッとして詰問したら、懸賞小説に当選したらすぐ花形作家になった気で、ホテルに泊りこんでいるようなやつは大嫌いだ、と言明したんだ。これにはおれも返す言葉がなかった。」
  私は七円五十銭のホテルに三日もいるうちに、すぐ借家が見つかると思ったのが、もうその三日もすぎ、払う金がなくなりかけているところなので
 「おれのすることがそんなに難波君の気に入らなければ、すぐホテルを出よう。その代り行くところがないから、夫婦で難波の家に転がりこむから、そう言ってくれ」

 私が無頼漢ぶりを丸出しにすると、堀は真面目に心配して
 「いや、やつの家には夫婦の外に父親や子供がいて、泊る余地はない、いっそおれんちへこい」
 というので、善は急げと荷物をまとめて転がりこんだのが、大井町出石の、根太の抜けた借家なのである。
 行ってみると、堀の細君はせっせと荷造りをしている。あした、すぐ近くの大井町原の新建の借家へ引っ越すのだという。
 なーんだ、という気がしたが「この家は六畳と三畳のたったひと間半といった小さい家だが、玄関に門がついて、十坪あまりの庭もあり、惜しいんだけど、原の方の新築の家に引越すことにした」といって、翌日堀夫婦はそちらへ引越して行き、私たちはあとに残って始めて東京の一隅に住居を得た。

 何日かして堀の手引きで、東京駅前の焼けあとにあるバラック建ての束京毎夕新聞社に出かけてゆくと、難波はうちとけない冷たい顔をして
 「懸賞小説に当選したからといって、すぐ上京して、作家として食って行けると思うのは虫のいい考えだ。文壇に出るというのがいかに困難なことか、君は何にも知らないんだ。
 僕は菊池寛とは時事新報時代の同僚なので、去年と一昨年、大阪北河内郡野田村の山小屋で貧苦に耐えながら一生懸命、何篇かの作品を書き、菊池君に送って文芸春秋にのせてくれとたのんだが、一篇ものらない。
 最後に「楠正成」という百何十枚の戯曲を書き、友人の倉橋惣蔵に読ませたら、傑作だから沢正にやらせようということになった。

注)沢田正二郎。(明治25年〜昭和4年)新国劇の創始者で、当時大変な人気を博していた。

 ところが沢正は、僕の「楠正成」を読んで、まづどこかの難誌に発表して世評に上ったら考えてみる、という返事なのでそういう内情をのべて、これだけは何とかして文芸春秋にのせてくれ、と菊池へたのんだ。その返事に、やはり、この程度ではのせられない、お金に困るのなら他の方法で援助しよう、君は文学で食って行くのは危険だと思うから考え直してみてはどうか、といってきた」

 難波はそこまで語つた上で、私にこう言ったのを、半世紀後の今でもハッキリおぼえている。
 「僕でさえそうなんだから、君が作家になろうなんていうのはどだい無理だよ。大阪に帰って何か外の道を考えるんだね」
 私はかれに、文学の才能なしと引導を渡されたのである。
 小学校しか出ていない二十七才の人生未経験者の私ではあったが、あんまりばかげた話なので、それをひどい侮辱とも感じるに至らず、ポカンとして帰ってきたが、さて「毎夕」に小説を書かせてもらえないとなると、飢餓に瀕することにもなる。

 困ってしまって妻にもまだ告げずにいるところへ、新聞社からの帰りかけに堀が立ちよって「どうだった?」と難波との話し合いの結果をきく。仕方なくありのままに告げると、堀はすっかり憤慨して、私がなだめなければならないくらいであった。
 堀は怒りのほこ先を私にも向けて
 「君は難波にそれほど侮辱されて、何ともないのかね。君は平気でもおれが承知できん。それではおれの顔は丸つぶれじゃないか。あした、おれが話しなおす。場合によれば、おれにも考えがある」
 とプンプンして帰って行った。その時、もう財布にお金が二、三十銭になってしまったので、少し貸してくれないかと私がたのむと、ふり返つて
 「ウン、五円や十円ならある。あした家へきて女房にそういってくれ」
 これには、私はかなりの侮辱をおぼえた。
 堀とは男同志の許し合った友人だが、その細君には同じようにはいかない。遠慮があって「五円貸して下さい」とはとてもいい出しにくい。そういうこちらの気持を察する力が堀にあれば、女房からもらって、私に「おい」といって渡してくれば一挙にすむのに、と私は有り難いやらうらめしいやら「あいつもバカだなあ」と、後で自分の女房に嘆いたものだ。

 しかし、背にハラは代えられないので、翌日かれの家へ夫婦で出かけて行ったら、堀はもう帰ってきていて
 「おい、君に書かせることを難波はウンといったよ。だから題名とか、はじめの五、六回の原稿を早く作って社へ持ってこい」
 との快報にかかわらず、かれはひどく不機嫌で浮かぬ顔をして、浴衣着のままその場に寝ころんでいる。
 かれの細君は、そのそばでみんなに紅茶をいれている。そんな風に夫婦そろっている中でごく親しい友人の方をさしおいて、その細君に「困っているんで、五円貸して下さい」とはちょっといい出せない図となった。
 私は内心イラつきながら辛抱づよくチャンスを待ったが、月に百五十円か二百円はいる話をまとめてもらった男が、しかも夫婦そろってやってきて、それとは別に五円を哀願するというのは、何としても格好がつかない。といってあきらめてかえれば、夜があけたら困るのである。

 私はついに、節を屈して堀の細君に両手をついて借金を申し入れた。
 何といったのか忘れてしまって、その際の上がったぎこちなさだけが永久に印象に残ったが
 「あらそう……。」
 と、堀の細君は亭主からいわれていたとみえ、すぐに応じてくれたのでホッとした。
 堀の細君から十円借りて、六月の生ま暖かい日に真っ暗らがりの道をわが家へかえってくるのがトンチンカンだった。私は何度も下駄をふみ外してつまづきそうになった。ほととぎすが途中何度も鳴いた。

 数日後の朝早く、東京毎夕新聞社に出かけた。編集局長の難波英夫がなぜか私に意地悪をしているのはよくわかっていたが、これにハラを立てたらまづいことになると我慢して、まあせいぜい低頭平身すべきだと考えた。
 その日の朝も私の顔を見るなり、難波はいやな顔をして
 「貴司君、ここへきたまえ。僕は仕方がないから君の作品を採用することにしたがね、この原稿は何だね、よく読んでみたまえ。英語が五、六か所もはいっている。僕らの新聞は労働者の新聞だから、英語はわからんよ。全部目本語になおしてくれ給え」
 という。
 すでに五、六回書いて渡してある原稿のどこに英語がはいっていたのかと思うと、イエス・サア。ベリ・グッド、シンクレアといった英語のそばに赤線がひいてある。
 「これをなおすんですか」
 というと
 「それを日本人が読んでもわかりやすいように、日本語にしてくれたまえ。わからないよ」

 また始まった、と思いながら「はい、はい」と答えてさてなおそうとすると、ぐっと胸につかえた。日本人が読んでもわかりやすいように、とは何事だ。日本の労働者をバカにしている。これくらいの英語がわからなくて東京の労働者がどうなるんだと思った。
 しかし目的は外にある。私をいじめるのが目的なんだ。
 私のどこがいけなくて、こんなにたびたびいじめられるのだろう? と思った。しかしやはり、じっと我慢した。ここで難波と喧嘩すれば、堀が困るだろう。私のどこがいけなくて……
 私はしきりに、難波を悪くしている私の欠点を考え考え、前記の英語の単語を目本語になおした。
 やはり私のプチブル的な生活態度がいけないんだ。その一々が難波の気にさわるのだ、と思った。といったって難波の方が私よりもっとひどくプチブル的なんだ、それが衡突するんだ。私は悲しくなって、涙をおとしながら原稿に朱を入れた。
 「これでいいですか」
 と、翌日社に行って差し出すと、難波は意地悪く私の原稿をにらみまわしながら
 「シンクレアってのは、何ともなおしてないじゃないか」
 「それは人の名前ですよ」
 「フン、そうかい。はじめから毛唐の名前が出てくるようなハイカラな書き方をして、わかるかねえ」
 ときた。
 私が黙っていると「まあいいだろう」と、私の原稿をつきやるようにした。

 その日が皮切りで、第二日も第三日も書いて送る原稿を一々なおすのである。英語だけではない。しかし一か月ぐらいすると、さすがにそれは止めた。編集局長として、大人気ないとさとったらしい。
 ところがそうではなかった。
 小説がのり出したのは六月の始めで、六月の末にならないと原稿料がもらえない。
 その前に大阪時事の上杉弥一郎編集局長から「朝刊に小説を書け」といってきて原稿料は「月三百円」ときめられた。しばらくすると、九州日報社から、時事新報の私の作品に毎日さしえをかいている大橋月皎の斡旋で「何か書いてくれ」とたのまれて、そちらへも書くことになった。

注) 大阪時事の原稿料は「一日十円」と日記に書かれているから、月三百円というのは正しい。
別のところで、当時の人力車夫の給料が四〜五十円と記されているから、月収三百円は相当な金である。

 六月の末になれば小千円の金がはいることになったのだが、今は文無しだ。
 六月という月をどうして渡ろうかと、自分一人ならさして心配はしないのだが、家内の悦子が、金が無いということに滅入りこんでしまって、もともと肺が悪かったのが、さらに悪くなり、折から暑いし、境遇の激変に驚き、打ちのめされて、寝込んでしまった。

          2.朝日の懸賞小説に応募      ◆文学史TOPへ  ◆資料館TOPへ  

 私は、朝日新聞が小説を募集しているのに応募して私自身の力を試してみようと思いつき、ねている妻のかたわらに頬をよせて「心配したらあかん。ぼくはこれから朝日の懸賞小説を書くから。当選したら五千円くるんだ」といいきかした。
 妻は時々喀血しながら、それを私にはかくして「体に気イつけて」と答える。

 それから夏の苦行がはじまった。
 机の前にすわって書く。東京毎夕、大阪時事、九州日報とに書いてしまったら正午になる。
 毎日三新聞に一回づつ書く。それがすんだら朝日新聞の懸賞小説を書く。

 朝日新聞のは「人造人問」と題したもので、サボントという南洋渡来の外人が日本にきて病気で寝ている。……サボントは南洋でエメラルド島を切りひらき、そこを共産主義の国にしてしまい、世界の評判になっている……という設定。
 ホテルへは、怪しげな人物が忍びこんでくる。サボント自身なのだが、ひそかに変装して外出し、柳原喬という怪人物になっている。
 柳原は、洋楽家八重島桜子の恋人であった。
 かつて桜子と柳原はこの海浜のホテルを舞台に、一場の失恋劇を演じたのだ。その後桜子は外国にいって、世界的に有名な歌劇女優となり、偶然サボント氏と同じ汽船で横浜に着く。船中、食堂も一緒。時々顔も合せる。
 サボント氏はボーイなどから、かの女の名をきく。
 ある夜おそく、かの女が寝ている部屋へ、覆面の怪人が侵入してくる。ピストルでおどして
 「桜子さん、僕ですよ。昔、茅ケ崎のホテルで自殺した柳原喬がこうして突然、またあなたの前に出てこようとは……」
 昼間には、サボント氏のもとへ、都留検事、南良彦という医博、その恋人百合子といった人々が訪ねてくる。南博士は人格変換術という前人未踏のことを研究中で、サボント氏は南氏に研究される患者として、南氏の研究所へ移される。
 この研究所は、昔柳原喬が八重島桜子に失恋して自殺した部屋である……等々。

 私は蒲田の奥に新線を作るため毎日毎日、砂や土を運ぶトラックの通る道路のそばで轟音と砂ぼこりに悩まされながら、暑さにあえいで倒れてしまった細君の介抱をしいしい、筋書きを書きつづける。私の筋書は飛ぶようにして書ける。
 私の書いているのは、大正十四年の夏、堀口大学訳で第一書房から出版された「科学の奇蹟」と題するフランスのジュール・ロマンという人の書いた映画小説がお手本である。
 この、第五巻以後のストーリーは「使えるな」と思わせた。それが去年のことで、私はこれを上京する汽身の中で読み、とっておいた。
 悦子が倒れてしまったので、私は朝日新聞の映画小説を書くことを思い立ち、これが当選すれば(必ず当選すると思った)悦子が元気を出して病気がよくなるだろうと思った。

 ----悦子は頭がよくて結婚の相手がなく、二十四才までぶらぶらしていて、ついに近所の小方庸生と婚約をした。小方家は摂津富田の富農、小方庸生は帝大文学部フランス文学科を卒へて、その年大阪高等学校の講師になって帰ってくる、というのと見合をして正式に婚約を取り結んだ。
 ところが、小方という人に、失望するような事が起こり、そのまま結婚するまでぐずぐずしておれば、不幸な結婚生活に直面するようなことになる、と判断した悦子は、その相談の手紙を私によこした。
 私と悦子とは、大阪割烹学校での知合いというだけであったので、相談の手紙が異様であった。
 大阪高等工業学校へよび出して、きいてみた。
 かの女は小方の詩集を持ってきた。「古典的な風景」という表題と島崎藤村の題字がついていたのをおばえている。詩には人間感がなかった。それをいうと、かの女は「私もそう思います」との事である。
 しまいに「あなたのような人と結婚できたら幸福になれると思います」とかの女の方から真赤な顔をしていう。
 私もそういう後の話があるのを半ば予想していたので、意外でもあり、また当然の成り行きとも感じた。

 しかし「あなたのような人」とはいうが、私の社会主義への傾斜を知るわけはないし、先方は藤原鎌足についてきた百人長の家だし、身分がちがう。それにかの女は体が悪く肺結核で二年も寝ていたという人である。
 どうしようかと、私は悩んだ。そんな大きな古い家の娘が、素寒貧の私のような者のところへとびこんで来ようというのは、よほどの生活革命である。
 一年ほど交際の期間を経て、ついに私たちは結婚する決心をした。かの女の兄弟は反対だったし、親は杉山元次郎をさえ「あんな赤い人」といって恐れている位なので、絶対に反対だった。
 私も自分が親なら賛成はしなかっただろう。賛成はしないという人を恋してしまって、二律背反の思想のまま、猛烈に周囲からかの女を奪い取るという行動によって、結婚した。

注) 杉山元治郎:(明治18年〜昭和39年)賀川豊彦と並ぶクリスチャンの農民運動家。当時全農委員長、労農党委員長、昭和七年には代議士に当選している。戦後日本社会党代議士会長、衆議院副議長などを歴任した。

 自分には小さな生活革命であったが、かの女には恐ろしく大きな生活革命であった。(その矛盾も他人にはかくしていたが、夫婦間では愛情のタネになった。)
 だからかの女には、大正十五年四月に初めて二人で東京へ移ってきて、鉄道ホテルに泊っているというだけで、何故難波英夫からかほどまでいじめられるのか、合点が行くはずはなかった。
 何百円か何千円かの収入が、あと十日か十五日にして手に入るとわかっていながら、今十銭もないという恐怖がつくづくかの女の身を苛むのだ。かの女にとってそんなことははじめての経験であった。心細い恐怖の生活! それを私がまた、あまり察してやれなかった。
 私にしては、多産な、かつてないような有望な生活であった。
 この実感の相違がわかっているようでわからなかった。生活の恐怖が日々かの女の虚弱な体にくいこんだ。

 それは六月のお終いの日であった。
 私が月給をもらいに行くような気で、朝から東京毎夕新聞社へ行こうとすると、悦子が「あたしも行く」とおびえておき上ってきた。十銭、二十銭の債鬼がきて、断りをいうのに家に残っていられないというのである。
 私なら何でもないことだが、かの女には初めての経験であった。
 無理もないことだと思い、六月三十日という梅雨上りの暑い日に、絶えず喀血する病妻をつれて東京駅前の東京毎夕新聞まで行った。
 近くの東京駅三等待合室にまたせておき、私は一人で東京毎夕まで歩いて行って支払いを待った。一時ごろ一度東京駅ヘ見に行き「おなかがへっただろうが今少しだから待て。三時ごろには難波から金を受け取ってくるからね」と慰めた。悦子は空腹と疲労と暑気のため、ぐんにゃりなりかけていたが「うん、待っている」と、頑張った。

 三時をすぎると、社員は百人近く帰ってきて月給を待った。
 その騒々しいこと限りがない。私は新聞社の中にははいらず、風の涼しい社の前で、大ぜいの社員が待ち合せている中にはいって、待った。
 四時半になった。
 「難波の責任だ。ようし!」
 とどなって、憤然として社内へはいって行く白い洋服の男がいた。手に扇子を持っている。その男の難波交渉にみなが期待した。まもなくその男は一人ですごすご出て来た。しょげている。
 「あと一時間くらい待てだとさ。自分らももらっていないのだとさ」
 と同僚に報告している。
 実際に金が出たのは七時をすぎていた。あたりは昏くなりかけていた。支払いが始まったとわかると、あたりに待機していた連中は、一人残らず社内へはいっで行った。
 私はとりのこされた。みな、もらうものをもらったらしくさっさと帰ってゆく。私はもらいそこなって七時半になった。難波が出てきた。早坂(東京毎夕・外報部長)も堀も出てくる。みなもらったらしい。幹部職員がかたまって丸ビルの方へ帰ってゆく。もう帰るのだ。

 私が、おとなしく待っていたのをいいことに、忘れて帰るところだ。
 「難波さん」
 私はうしろから追いついてよびとめた。
 「僕の原稿料は、いつくれるのですか」
 「あ、原稿料ね。そうだナ、明日にしてくれないか」
 「今日、家へは借金取りが何人もきていると思うんです。今から家に帰ったら、それらの十銭、ニ十銭、五十銭という細かい借金とりに払う金が無いので困るんです。今日は十一時頃からきて今まで待っていたんです。それを明日にしてくれとは何ですか? 今、払って下さい」
 最後の私の言葉は、大きく粗々しかった。難波はドキリとしたらしく
 「いくらいるんだね」
 という。難波が月二百円の最高給をとっていることを私は知っていた。
 「百円下さい!」
 私は断られたら困ると思って大きな声を出した。
 難波は不快そうな顔をしたが、ふところから財布を出して中にあった百円札二枚の内の一枚をよこした。
 私は名刺に受取りを書き、金と交換にわたした。

 何と厄介な原稿料であることか!
 私は難波からようやく百円札一枚をせしめて、東京駅へかけつけた。東京駅も夜で、電灯が明々ととぼっていた。しかし細君はいない。
 ぼんやり昼間のイスの附近で立っていると、どこからか泣きながらかの女がかけつけてきた。
 「どうしたんだ? お腹すいたの?」
 ときくと、かの女は私にとりすがって泣くのである。巡査がやってきた。四十すぎの巡査で夏服を着ていた。
 「この人です、あんた」
 と、かの女は私の手をつかまえて泣く。どうしたのかと思う不審のわけを、巡査が話してくれた。
 「この人は五時間も七時間も一定の場所にいて、何か曰くありげにふさぎこんでいるんですよ。だから私が『どうしたんです』とお尋ねしたんです。するとこの人が『主人はすぐそこの東京毎夕社へ原稿料をもらいに行き、まだ帰らぬので私は待っているんです』というんです。いささかおかしいんで、自殺でもするんじゃないかと、見張っていたんです」
 妻が、町の巡査に自殺未遂者とみえるくらいおちぶれてここに待っていたのかと思うと、私は難波英夫に対する腹立ちがめぐってきて、やり切れなくなった。

        3.「ハマサク」と「花長」      ◆文学史TOPへ  ◆資料館TOPへ  

 この日の悲劇は、私の家内の悦子の悲劇であった。
 他人の目に「自殺者と見えた」ほどのみじめな姿になって、借金とりに払う十銭五十銭がなくて東京駅に逃げてきて、八時間も十時間も待っていた私の妻の姿を……私が知ったのは巡査の証言によってであった。
 私は、巡査の眼にうつった妻の姿が、いかにみじめなものであったか、それは俸給者労働組合をつくり、その委員長となっている難波英夫の、至らなさから生じたことである、と思えば難波に対する憤りがこみあげてきてどうすることもできない。

 それをヒョイと肩からはずして「百円でけたんやから、うまいものでも食べようや」と妻をはげまして西銀座の方へ出て行った。
 西銀座六丁目(とはそのころ、いわなかったが)には当時、大阪料理を食べさせる「ハマサク」が店をひらいていた。私はそこののれんをくぐった。「ハマサク」は大阪では二流どころの日本料亭であった。大阪でなら、はいるのを遠慮するところだが、東京では「ハマサク」ほどうまい日本料理を食べさせる家はなかった。
 「ここへはいろうや」と、私は厄払いに、しいて妻を「ハマサク」へつれこんだ。
 妻の方が私よりもずっとうわ手の料理通だったので、大阪の「ハマサク」を知ってもいたし、そこが大阪では二流の料亭とわかっていた。しかし、うまいもののない東京では一流の料亭である。

 ----ということは、例えばヤマサ醤油は今でこそ一流の醤油として全国に普及したが、そのころは「カラ口」「アマ口」の二種類しかなく、三越横手の何とかいう料理屋で食べても、カラいヤマサ醤油ではいやにエガラッぽく、甘口は砂糖でも入れたかの様に妙に甘ったれていて、とても口にあわなかったのをおぼえている、というよりも、こんなアマカラ二口の味に満足している東京人の味覚に驚いた記憶がある。
 そんな中で、大阪上りの「ハマサク」の料理は時好に適して大当りをとり、毎晩客が立てこんで寄りつけないくらいだった。
 板前の男が三、四人、テケツの前にいた。その前に並んで掛けて、好きなものを調味させて味わうのである。
 私の横にいるのは、ふとみるとさっき難波が払いがおそいといって強談に押しかけた男である。組合にもはいらない個人主義者だとわかっていた。

 かれは、私をみると「貴司さんだね」と先方の方が覚えていて、話しかけてきた。語るところは難波の悪口である。
 「毎月、月末に稿料を受け取りにくるのかね。怪しからんじゃないか。稿料ってのは、支払日を定めて、こちらから届けねばならぬもんじゃ。それを、小説の作者に、えらそうに取りにこいってのはないよ。失礼じゃないか。稿料というのは労働賃銀じゃないんだからね。われわれ月給とりと一しょにして、居催促をして、やっと払うというのは失礼千万じゃないか。おれが編集長ならそうはしないんだがね」
 「君はだれだったか……」
 ときくと「川崎」という名刺を出して「何しろ、失礼じゃ」と、何度もくり返す。そしてみていると、かれは生の海老の刺身を十匹ほど注文して、それを一ぺんに食べてしまい
 「おれは、しがない月給とりだが、もらった月給でこうして月一度、うまいものをたらふく食うんだ。そして今日一日だけはブルジョア階級と同じ気持ちになって、翌日から二十九日間は、うどんやのツケでくらしているんだ。このような生活の方法はどうだ。おれは結構だと思っているんだがね」
 といいながら、つぎのようなことをしゃべった。

 「興津にいる西園寺公は、三日に一ぺん、鯛をサカナ屋に注文する。鯛の頭だけをね。そのサカナ屋は、西園寺が鯛の頭しか食わねえのかと思って『こちらの御前様は鯛の頭だけしか食わねえんですか』ときいたんだ。
 サカナ屋の考えでは鯛の身を注文すれば高くついて支払いに困るから、節約の意味でそうしているのかと思ったんだ。
 すると、ある時西園寺自身が台所へ出てネ、鯛のうち、一番おいしいのは頭だけであること、頭も、目玉のすぐ下の肉が一番おいしいということをしゃべったのさ。
 その時、ついでのように西園寺はこう言ったのさ。『第一、相模湾の鯛なんぞは、目の下の肉しか、まづくて食えねえ』とね。するとサカナ屋がやり返した。『相模湾の鯛は日本一おいしいんです、その証拠に天皇陛下に毎日差し上げているんです』と。天皇陛下にとネ。
 さすがの西園寺も返事に困って『陛下もお気の毒さ』とつぶやいたというんです。わしは西園寺に同意してまづい相模湾の鯛なんか、食わねえことにしているんだ。なあおやじ!」
 と川崎は声を張り上げて
 「鯛の味わいの一番うまいのはどこの鯛かね」
 ときいた。「明石の鯛だァねえ」という返事が返ってきた。

 川崎は得々としゃべったが、私はそれをきいて、京都、大阪の人々の常識だナと思った。京都、大阪の人々の常識では、鯛が明石でとれる頃を一番おいしいとしている。
 鯛が瀬戸内海でとれる手順でいえば、三月の中下旬に瀬戸内海の入口の鳴門海峡附近でとれ始め、その鯛の群れが播磨灘にはいって盛んに交尾しはじめる時が、一番あぶらののった最盛期といわれ、最も美味とされているのである。しかし本当は、鯛がまだ瀬戸内海にはいらず、鳴門海峡の太平洋側に群がっている時の方が、もっとうまい。
 その時は鯛の交尾期の少し前で、処女の味がするといわれる。
 それが、約一週間もして播磨灘にはいり、明石沖にかかって盛んに交尾しはじめると、味は少しおちる……
 「上方の人は、瀬戸内海の鯛の味しか知らないから明石の鯛が一番うまいというんだけど、一番うまいのは鳴門鯛だ。肉の味がコリコリしてアブラが行きわたっておらず、それにさっと冷たい水をかけて締め、鳴門でとれた若布をそえて食べるのが、一番うまいというんだがネ」
 と、私が話したら食通らしい川崎はまいって
 「ふうむ、そうか、鳴門の鯛ときいてはいたが、おれは実はまだみたことがないんだ。ふむ、そうかァ。君は鳴門の鯛のうまい時に行きあわせたんだね」
 と、私が大へんな食通であると思ったらしく、しきりに怖れをなすので

 「おれは鳴門の生れなんだ」
 と打ち明けると
 「そうかァ、そうだろうなァ」
 と感心して
 「奥さんと二人で、東京にいて、アヅマエビスの欠舌の徒の食味にお相伴しているんでは、やり切れんだろぅなあ」
 というのであった。
 「束京でうまいのは、車海老と鰻だけだ」
 と答えると、川崎は踊り上らんばかりにして
 「そうだ、そうだ。天皇だって、車海老と鰻を食ってりゃいいんだ。しいて、鯛の味を追って、相模湾の鯛がまずいといって、目玉下の肉ばかり食わなくてもええんだ」
 と、食卓の上を打ちたたいた。私は鯛の目玉の下を忌避したわけではないが、その日は、車海老の生の刺し身ではなく、鰻と車海老の天ぷらをしたたか食べて、一切の憂さを忘れて外へ出た。
 川崎という男の印象が深く残った。

 鰻と車海老の天ぷらの一番おいしい店というのを私は、まもなく人形町の「花長」だと人から教わった。ことにその店は、客の前で百八十度廻る舞台が面白かった。その店は、夏目漱石が夫人の案内でよく食べにきて、鏡子夫人お得意の店である、といって松岡譲に夫婦でご馳走になったことがある。
 花長のおやじは、文楽の浄瑠璃語りが出を待つような恰好で、廻り舞台に乗っかってあらわれる。舞台の前にはおなじみの油を煮ている鍋がある。おやじはその前に坐ってたえず油の加減をみながら、酒は二本しか出さない。二本以上要求すると、はっきり断るのだ。
 「天ぷらの味がまずくなりますから」----そういうことがいえるくらい立派な味わいなのだ。

 私はここへ野田律太をつれて行ったことがある。
 野田は「ではどうぞごゆっくり」と、おやじが舞台を回して次の客の方へ回って行ってしまうと、あっけに取られ、思わず拍手した。それほど気に入った。
 そして一年か二年か、未決にはいっていて出てきたので花長につれて行くと
「貴司さん、ぼくはここの夢をみて獄中では困りましたよ」
 後に、宮本顕治と地下連絡中、ここなら大丈夫とつれて行くと、かれは無言で天ぷらを食べ「あとで困るだろう」という。多分、天ぷらの夢を獄中で見て、その後味を追うのが困るというのであろう。

 この花長へは、チャップリンが行くようになって有名になった。
 チャップリンは「日本へきたんだから一ぺんで永久に忘れられないものを食わせろ」と側近者にいい、花長に行って、すこぶる感服し、その後また来日した時には、二度か三度か行ったらしい。
 私は、高いので、この店へはそうたびたび行かなかったが「人造人間」を書きあげたあとでは何度か行った。

 ……さて、いいかげん、スキ腹にたらふく食って外へ出たのはいいが、ハラの皮に庖丁を入れず背中を裂く裂き方の東京のうなぎを食ったのがあたったのか、昼間から何も食べていないのに急に鰻を食ったのがいけなかったのか、私はムカムカしてきて、銀座五丁目の裏通りへ出て、ゲーゲーと吐いてしまった。
 細君が心配して「大丈夫?」と背中をさする。「大丈夫だ」とはいったけれど二度も三度も吐いた。
 大暑中の原稿かきと、暑さと、必配がたたったのだ。いや、はっきりいうと東京毎夕の難波英夫がたたったのだ。
 「懸賞に一度当選したからって、すぐ作家になろうというのはどだい無理だよ、大阪に帰って何かほかの道を考えるんだネ」
 といった難波の言葉が胸につかえていたんだ。
 それをシャクのタネに「人造人間」をまで書いてみたほどだけど、シャクはなおりやしない。

 私がここ二、三年、新聞記者をよして作家になろうと、どんなに苦心惨胆したか----それも故郷を出て、空想のような決意を実行にうつしてからなら、大正九年からだから、生まやさしいことではない。
 故郷の市場町の土手で、部落民の男になぐられ、産業組合の簿記の修得に夜どおし独学をして、塩業組合の組合長にきらわれて毒づかれ、村の何人もの男に罵られ、妹や弟の心を傷つけ、結局恥多い思いをこらえて家出をし、危いところで新聞社へ転がりこんだ。
(大阪までかえって、何かほかの道を考えるんだネ)と軽いロ調でいわれて〈ハィ、そうします)とどうしていえるものか。難波はあんまり自分の経験にかかわりすぎるよ。自分か、どうしても門が開かなかったからといって「そこは開かないよ、おれにも開かなかったんだから。帰って外の道を考えろ」とどうしていえるんだ。
 「そこはなかなか開かない、でも、ま、やってみたまえよ」とぐらい、なぜいえないんだ、もつと優しく……

 いや、しかし、人に優しさを求めてどうするというんだ……でも、優しさは、すべての人の特長なんだ。優しくいわれた時、どんなに心が慰まるだろう。難波だって、もともとは優しいんだ。それだのに私に向っていう時だけ、どうして「同志」でないと頭からきめつけたいい方をするんだろう。
 かれが、同志扱いしている人にだって、思想的に反同志の者はいくらでもいる。
 第一、堀がどうだ、堀自身いっているじゃないか、おれみたいな反同志的な人間をかばって、君にだけどうして意地汚くあたるんだろう----おれが難波の前で泣けばいいんだ。平気な顔をしているから、よけいハラが立つんだ、自分がバカにされてると思って……

 貴司は、夫婦で上京して、困るといいながら、夫婦でホテルに泊っているじゃないか、そんな者の世話をしてくれといったって、このオレがどうすればいいんだ。どだい、おれには貴司ってやつが気に入らないんだ。大嫌いなんだ。だからやつの書いたものも、のせたくないんだ----というならまだいい。
 貴司山治の代りに吉川英治でも、佐藤紅緑でものせたまえ。それが、大きらいな貴司をやっつけたことになるのなら----
 そこから先を考えていると、無性にハラが立ってくる。ムカムカしてくる。
 「仕方がないから、君のものをのせるよ」といって、しぶしぶ「宝冠」をのせながら、原稿料を払おうとしない。いろいろな嫌みをして人を困らせる。もうあと三日もすれば、五日たてば、東京毎夕の原稿料なんかうっちゃっておいて、書くのをよしてしまってもいいんだ----

 急に私は、自分のしていることと、他人から仕向けられていることに衡撃(ショック)を感じて、胃の腑がおかしくなってきて、ゲロゲロと食ったものをみな銀座の舗道にもどしてしまった。
 細君は、私のそばへ寄ってきて離れようとしない。
 「少しあの天ぷらがいけなかったんだな」
 「気をつけないと……」
 「いや、何でもない」
 と、私は歩き出した。
 新橋から電車で帰ってくるあいだが暑くて苦しかった。大森駅に下りると、大雷雨である。「ふれふれ」と思った。大森駅でしばらく雨待ちをしていると、やっと止んだ。涼しくなった。
 私は自分の家まで走って帰った。私の家は、昼間の疲れでしょんぼりとくらがりの中に建っていた。

         4.大正から昭和へ     ◆文学史topへ  ◆資料館TOPへ  

 秋になった。大正十五年……
 やっと秋虫のなきしきる秋がきた。家の前をひっきりなしに通る土運びのトラックは、いつのまにかひっそりと休んだ。
 私は、朝目新聞に送る懸賞の原稿が書き上ったのでやっと身辺少しヒマになり、お金の余猶もできたので、たちまちプチブル的な生活を始めた。
 といっても、タカの知れた贅沢で、妻に「何かいいものを買ってやろうか」といったら 「あんたのそばにおくロッキング・チェアを一つ----」 というので、大阪の白木屋にそれを発注したのである。
 大阪の白木屋というわけは、妻の病気をいたわるため、東京の冬の空気がよくなかろうと案じて、大森の根太の折れた古い借家の六月の惨胆たる生活を恐れて、大阪へ帰ることにしたからである。

 大阪では、阪急宝塚線の豊中に住んだ。
 私の生活は、難波の心配をよそに、菊池寛の注意通り大衆文学に志したので、講談社の注文が殺到し、明けても暮れても机の前をはなれられないくらいだった。そのために腰かけ机一つと、その椅子を買った。寝ころぶのに都合のいい長椅子も買った。
 それを買うために、大阪の白木屋に知合がいたのでそこを使ったのである。
 何もない所へこれだけの物を一時に買いこんだので、急にプチブル生活をはじめた感じであったがそうでもなかった。野田律太が早速遊びにやってきた。

注)  野田律太:評議会委員長、評議会とほ大正一四年五月、総同盟から除名された左翼二十九組合(刷新同盟)により、神戸に結成された日本労働組合評議会のこと。野田との交遊の由来は、後に詳述されている。

 郷里の鳴門の塩田労働者の娘で、楠カオルという子を一人やといこんで女中に使った。
 この家は、階下が二た間と、階上が二た間の棟割長屋で、となりの家は中学校の教師が住み、井戸水は両方で使った。家賃は月三十五円であった。近所の農家が副業で建てた家で、裏が竹やぶであった。

 近くに看景寺という古い寺があり、顕如上人だかが巡錫した時立ち寄ったという古寺で、そこに一人の老僧がおり、京都から出ている「中外日報」という宗教新聞の記者で、その新聞には「地上」という小説を書いてベストセラーとなった島田清次郎という人が勤めていたことがあり……と、そんな話題に花が咲いた。
 私の友人の田面(たづら)欽爾は、始めその老僧と打ち解け、次いで寺を訪ねて、そこの長女で眼の丸い色の白いよくしゃべる娘と知り合いとなり、その娘と恋仲となって、とど婿養子となった。
 私もその看景寺の世話で、その借家を借りたので、原稿を書く合間には看景寺へ時々遊びに行った。原稿を書くのが忙しい時は、永くご無沙汰した。すると向うから田面欽爾が遊びに来た。
 岡田播陽先生も何度もやってきた。野田律太も来た。冬がすんで年号が大正から昭和に変った。
 この変り目が、大変だった。
 変る少し前に、郷里の福永豊功がやってきて金二十円をくれという。
 何にするんだ、ときいたら「ストライキの宣伝のため、岡山まで行けというんだ、その旅費に入用だ」という。誰がそんなことをいったんだときいたら、大阪の評議会本部へ行ったら、そうしろといわれたんだ、といって国領五一郎の名をはじめてあげた。

注) このエピソードは、別の所に大正十五年初め、京都の寺でのでき事としても記載されているが、日記によると、昭和二年一月二四日にきて「広島の向こうの大竹というところに行くからと、五円とっていく」などとあり、オルグ旅行の費用をもらいにきたことが推察されるので、こっちの年次が事実であろう。

この時は、旅立った福永の旅先にまで何度も送金してやったりして
 「今月は福永に百円以上だ。福永のやり方も一考を要すると思う。一地方へ行ってその辺の有志に話をし、大会を開く段取りをしてすぐ警察に弾圧を加えられ、手足が出なくなったといってはにげかえってくるようなことをくりかえして、その間の費用を友人(貴司)からもらってばかりいるようでは何だか遊んでいるようなものだ。」
 と気遣っている。

 ちなみに、話はこの件の後に大正天皇の崩御があったような流れになっているが、実際は改元後の一月ということになる。

 「あとのやり方(撫養塩田はストラィキの準備中だった)を相談したら『君んところでは大阪平民新聞に書いてある森近運平の文を読んで、こんど賃銀値上げを要求するってんでストライキを始めるときいたが、それよりも巾ひろくストライキをやらせるようにしろ、それには香川、愛媛、岡山、兵庫あたりの同じ塩田労働者の賃金をしらべて、みな一様に値上げを要求するようにしろ、撫養塩田五百戸だけの局部的な問題じゃないんだ』といわれたんで……」
という話。

 「まづ岡山へ行けといって、この通り名刺に紹介状を書いてもらってきたんだ。出かける金がない、というと、君の友達の貴司ってやつは小説を書いてどっさり金をためているそうじゃないか、貴司に相談しろよ、という話なんでネ。それでここへきたのさ」
 というわけである。やむをえない。しかし二十円という金は手許にない。
 幸いに、年末に九州日報社から四百円だか、小切手で送ってきたのを、大阪の銀行へもらいに行くと「この小切手は、東京有楽町支店の小切手ですから、いったん当店にお預けになった上でないと現金は引出せません」とのことで、そのまま先方のいうとおり預けっぱなしにしたのがある。
 それをもらいに行けば、もう何日もたっているのだから現金化ができると思って、その日の午後に東京へ送る小説の原稿を書いておかねば間に合わないのを、福永をつれて午前中に大阪市中へ出た。

 老松町の十五銀行に行き、金を百円出し二十円を福永に与えた。それから豊中に帰り、原稿書きに没頭。夕方、カオルに持たせて大阪駅から客車便で原稿を東京へ送る。
 深夜、号外の鈴の音に起こされること度々、大正天皇崩御の知らせである。
 「いよいよ崩御ですよ、嘘じゃありません!」
 と深夜の号外が、大声で叫んでいく。
 やがてそれも納まり、鈴の音におびやかされることもなくなったので安眠する。
 こんなことをして、どうにか年があける。「昭和」と年号がかわったという号外、「光文」とかわったという誤報の号外……なかなか騒がしい。
 しかし、昭和二年からはじまった昭和の年は、私の年だという気がした。
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