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   「ゴー・ストップ」1955年戦後版に付された作者自身の付記(抜粋)

         わが遍歴 (未定稿)         貴司山治
                 −−−三一書房「日本プロレタリア長編小説集第三巻」1955年所載  

<この小文の背景について……伊藤純>
 この一文は、貴司の作品を集めた1955年の三一書房「日本プロレタリア長編小説集第三巻」の末尾にわざわざ「未定稿」と注記してのせられており、一種の「自筆年譜」のような文書である。直接「ゴー・ストップ」と関係するものではないが、あえてここに抜粋するのは以下の理由による。
 
 戦前、貴司は、蔵原ないしは作家同盟の「芸術大衆化論争」での批判に対して表面的には屈服させられた形になりながら、その後も「再三」大衆化についての問題提起を繰り返し、蔵原や作家同盟の批判に反発してきた。また戦後にも、晩年の「私の文学史」でこの批判に大きな不満を述べている。
にもかかわらず、1955年という戦後の時点では、貴司は非常に素直にかっての蔵原や作家同盟の人々のゴー・ストップへの批判を受け入れ、「作家同盟基準」の改訂に準拠するような大幅な改訂を自ら行い、これを最終版にするとしているのである。つまりは、1955年という時点では、批判を素直に受け入れる心境に立ち至っているように見える。これは前後の経緯から考えて非常に奇異な感じを受ける。
 この「わが遍歴」の文章は、その心裏をいくらかでも説明するものではないかと考えられるのである。
 年譜の、転向後、すなはち1938年以降の部分を抜粋採録するが、そこには、転向と煩悶、東亜共同体論・大東亜共栄圏志向の考え方への無理矢理の傾斜と、それへの絶望、そして敗戦後「人民の作家」にたちもどろうという最反転の流れが、簡略にではあるが要約されている。
 ただ、この未定稿以降の時代において、「人民の作家」という甘美な言葉との蜜月はそう長くは続いていない。1963年、部分核実験停止条約への賛否をめぐって、中野重治や佐多稲子といった戦前からの主要な“プロレタリア作家”が、宮本顕治、蔵原惟人らが中枢をしめる日本共産党と袂を分かつ、という事件が起こる。貴司もまたこの頃から、かっての作家同盟的な「文学大衆化路線」に屈服した事への反省と総括を進め、晩年の「私の文学史」につながっていく、再度の“遍歴”を閲することになる。
 そういう意味で、作家同盟の批判に応じて、無難無風な方向へと改訂した(少なくとも昭和8年以降の極めて困難な時期に「再三」提起した文学大衆化の考え方とも背反する)戦後版を最終版とする、という見解が、この時期特有の極めて限定された心境の所産だということを明らかにしておきたいために、これを採録する次第である。


<本文・前半略>
 ……
 この年(一九三八年)から、一九四〇年まで思想的煩悶が続く。「東亜共同体論」を可能性はあるものとし支持しようとする煩悶である。結局私は自分の無知から日本の資本主義が第二次世界戦争を経て、十八九世紀のイギリスのごとく繁栄する歴史的必然の時期をもつであろうと判断し、そういう歴史の時代に生涯を終わるべきまわり合わせの一文学者だと自分を信じるに至った。これが右の三年間になされた私の変心である。そして一九四〇年の末から四三年夏までに書いたこの時期の代表的な作品が「維新前夜」全七巻であった。
 ……
 一九四二年。九月ごろ、読売新聞第一線の会、(同紙寄稿家の会)で海軍大佐平出英夫からミッドウエー沖の敗戦をうちあけられ、「日本敗北必至」をひそかに告げられて、自分の東亜共同体的認識や日本資本主義への認識が全く錯覚にすぎないことを知り、すべての自信を失って軽井沢の山荘にこもり、懊悩煩悶にくらす。
 ……
 一九四三年。単身蒙古に脱出、死ぬつもりで、ソ連国境近くを徘徊、シリンゴールの西ウジムチン部落で蒙古人の中にくらす。
 一九四四年。絶望のまま帰京。文筆を絶ち、一家をつれて丹波山中に入り、開拓に従事する。
 一九四五年八月、日本降伏。
 ……
 一九四六年夏、全国入植者数万人が餓死に瀕する状態となり、各府県代表が土浦市に集まり、全日本開拓者連盟を結成して救済運動を起こす。私は京都府代表として、その中央常任委員となる。また京都府農地委員となり一九四八年まで、開拓農民運動に没頭する。赤貧洗うがごとく、得るものは汚辱ばかりであったが、この運動の中で、ようやく働く人民の一人として生きてゆく自信が私に戻ってきた。
 ……
 もし私が、人民の作家として生きのこることができるとすれば、これからの話であろう。   (以上)