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   「ゴー・ストップ」1955年戦後版に付された作者自身の解説(抜粋)

                                 貴 司 山 治 (伊藤純・編注)

*1955年戦後版=三一書房・日本プロレタリア長編小説集第三巻所載
*……は中略箇所を示す
*小見出し、注は伊藤純による

<ゴーストップ発禁と徳永改訂版発刊の経緯>
 この小説の初稿は、一九二八年八月から、二九年四月まで、東京毎夕新聞に連載された。
 ……
 この小説は、東京毎夕新聞に連載中、当時の急進的インテリゲンチャや労働者階級の間で、次第に評判になり、左翼唯一の出版所であった戦旗社から、小林多喜二の「蟹工船」や徳永直の「太陽のない街」と同様に、この、ゴース・トップを出版したいと、いってすすめに来た。交渉にきた社員猪野省三に、私はこの作品が、「蟹工船」や「太陽のない街」のように芸術を意図して書かれた小説ではなく、それとは別の「労働大衆の娯楽読み物」として書かれたものであることを説明して、それに対する戦旗社の考え方を糺ししたが、明瞭ではなかったので出版を承諾するには至らなかった。
 その直後に、そのころ初めて単行本出版部を創設して、ルマルクの「西部戦線異状なし」(秦豊吉訳)を十何万部売った中央公論社がそれに次ぐベストセラーを狙って「ゴー・ストップ」を出版したいと言ってきた。私はそこの出版部長の牧野武夫に「新聞にのった原稿は全部改作する」「労働大衆の娯楽読み物ということを本に明示する」という条件で出版を諾した。
 ……
 こうして一九三〇年三月下旬に出された中央公論社版の「ゴー・ストップ」は初版二万部印刷して、四日目に内務省の発売禁止処分にあい、全国的に差押さえられたがそれでも一万一、二千部はすでに売れていた。旬日中に改訂版を一万部発行し、こえて二年後の一九三二年に、春陽堂から文庫本として一万部発行したが、この時は私が治安維持法違反の名目で豊玉刑務所に入れられていたので、徳永直にたのんで、それまでに作家同盟によって批判された部分に改訂を加えてもらった。
……

<執筆当時の時代背景>
 私がこういう、労働大衆の読みものを書く仕事を、文学者の一つの任務として思い立ったのは、わが国の労働階級の政治運動がようやく国際的な軌道に乗った途端、支配階級の弾圧を受けて、一九二八年三月十五日、二九年四月十六日と、何千人もの被検挙者を出し、階級闘争史上の未曾有の血腥い激戦を展開したその渦中においてであった。
 私などは、その時まで日本に共産党のあることを知らなかった。共産党はまったく秘密結社として組織されて一般大衆には隠され、その代行政党として労農党が合法面におし立てられていた。そのうち、共産党の幹部は……コミンテルンから批判され、運動の仕方としては犠牲をいとわず、共産党そのものを公然化するコースへ転換し労農党は発展的に解消すべきだ、という新段階に移った。それが一九二七年暮れから、二八年春にかけての情勢であった。
 ……
 また、秘密結社の共産党、合法政党の労農党の基盤となっている左翼労働組合は、日本労働組合全国評議会−−略称評議会と称せられ、右翼の総同盟その他と対立しながら、最も激しくストライキ闘争を全国の各工場に、まきおこしていた。「ゴー・ストップ」の主たる内容となっている東京江東地区の一ガラス工場のストライキは、この評議会の活動を描いたものである。
 ……

<題材、モデル、鳴門塩田争議との関わり>
 当時の作者の、個人的事情を述べてみると、……第一次世界大戦後に郷里の鳴門で、評議会指導の大ストライキたる塩田争議をつぶさに見聞していた。大阪に出て、新聞記者生活中、郷里以来の縁故で評議会本部に出入りし、委員長の野田律太と面識をかわし、国領伍一郎、杉浦啓一とも知己となり、大学を出て評議会本部書記をしていた、長尾他喜雄とは友人となった。
 一九二六年、評議会が本部を東京に移した時、私は記者をやめて作家となり、上京して大森山王に住んでいたので、野田、国領が常に私の宅に来、運動資金の寄付等をした。「ゴー・ストップ」の内容は野田の協力によって構成された。野田からの題材提供で書いた作品は、このころ無数にある。「ゴー・ストップ」に出てくるガラス工場は、野田の紹介で友人となった柳瀬正夢と、無産者新聞にのせるため、江東方面を写真撮影にまわった時に立ち入って観察した、一ガラス工場をモデルにしたものだが、登場人物の山田委員長は野田律太であり、沢田は長尾他喜雄と、ほかに時計工の長江甚成をモデルとした。
 ……

*このあたりのエピソード、野田や柳瀬との交流の実際は「私の文学史」(この「貴司山治net資料館」に収載)にくわしく書かれている。

 鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難には、そういう理由では対抗できなかった。
 ……
 鳥羽の行動は私の「塩田争議資料」中からの抜粋であって、鳥羽が塩田争議の同志と巡りあうなどという話のつけたりも、そのせいである。……

*多くの資料が残っている大正15年〜昭和2年の鳴門塩田争議でみても、暴力団の介入、それに対抗する自衛団の結成などで、暴力行為が頻発した。組合側の暴力実行者として警察に追われながら逃げおおせ迷宮入りになった事件もあったようで、関西から逃げてきた鳥羽の設定はそれらを反映しているようである。1967年の徳島の郷土史家岩村武勇氏への手紙でも「行動隊の責任者はMだった」と逃げおおせた人物の実名をあげている。

<作家同盟からの批判と非難>
 作家同盟は、結成の翌三〇年、それ以前からひきつづいていた「プロレタリア・リアリズムの発展」の問題と「プロレタリア文学の大衆化の問題」とに新たに当面した。特に「プロレタリア文学の大衆化」の再討議には、私と徳永直とが作家同盟中央委員会によばれて参加した。
 私はその席上で「労働大衆のための娯楽読み物」を書くことが大切だという自分の単純な考えを理論的混乱のままでのべたために、それはそういう主張の形で、危険な謬まった考えをプロレタリア文学運動に持ち込むものである、と「ゴー・ストップ」を例にとって中央委員のほとんど全員から排げきされた。中野重治、鹿地亘、川口浩、壺井繁治、山田清三郎、立野信之、片岡鉄平などがそのメンバーであった。
 ……
 蔵原は、私の目の前で寸毫の仮藉なく「ゴース・トップ」を批判した。私はどうにか自分の主張の誤謬の所在が分かった気がしたが、それでもなお割り切れぬものを心にのこした。 ……
 一方同じ趣旨を中央委員会では「芸術大衆化に関する決議」として雑誌「戦旗」に発表した。(鹿地が書いた。)
 ……
 「ゴー・ストップ」にみるような内容の卑俗化−−事件の組み立てがリアリズムから外れ、偶然性が無批判にとり入れられ、個人的英雄主義が肯定的に描かれる書き方は、正しい意味の大衆化ではない、それは又革命的プロレタリアートのイデオロギーに反する−−として、批判されたのである。

*この時期の作家同盟での文学大衆化論争とその後については拙文「プロレタリア文学と貴司山治――「私の文学史」をめぐって」(この「貴司山治net資料館」に収載)に論じてある。

<残された文学大衆化の課題−−1955年時点での貴司の見解>
 ……
 私は作家として世界観も創作方法も至って幼稚なために「ゴー・ストップ」のような通俗読み物を書く力が足りず、その中に多くの卑俗さ、偶然性、封建的英雄主義、挑発的エロチズム等々を持ち込んだのであって、これを芸術として追及する方法をとっておれば、あるいは救われたはずである、ともいえるのである。(しかし)「芸術大衆化の決議」がこうした点に深く触れないで「形式の単純さと明朗さ」などを規定してみても、それは何も産み出さないし、また産み出さずに終わった。そしてこの決議によって、最初私の提出した「労働大衆の娯楽読み物」を書く作家の任務は抹殺され、或いは忘れ去られたのである……。
 私の疑念は決議のあとまでのこった。そのために私は一九三四年になって「文学評論」(ナウカ社)誌上で何回にもわたって、蒸し返してこの「大衆化」問題をとりあげたのだったけれど、それらすべては時の圧力におし流されてしまった。
 ……
 私の「ゴー・ストップ」などは、二十五年前に私が手さぐりで、貧弱な方法でやっと書いた一篇の「通俗読み物」であったのだが、こういう仕事の座席は文学運動の上では与えられずにきてしまったのである。その「危険な要素」が批判されただけで経過したのである。
 しかし、唯一つ思い出すのはこの作品の批判がほぼ決定した、一九三一年、左翼劇団の合同公演でこの作品が市村座で上演されたことである。山本安英が英子を、笈川武夫が沢田を演じたが、私は脚色者藤田満雄(山本の夫・故)が、当時のこの作品の「危険な要素」にたいするゴオゴオたる非難の渦中で、あえて「ゴー・ストップ」をとりあげた理由を生かしたいと今でも考える。
「この作品の批判された欠点は、脚色に際してけずりおとす。そうすればこの作品の持っている長所、ルンペンの一少年が階級性に目めざめて労働運動に入ってゆく経路や、ガラス工場に労働組合の産まれる集団生活の光景や、ストライキになって評議会の指導が行われる順序などは、この作品全体の持っている強い大衆性を通じて、好ましい影響を観客に与えると信じる」
 ……
 この作品は初版から二年後の春陽堂版のときに、徳永直によって改訂された。それは作家同盟の批判に従って卑俗なエロチズムの部分、鳥羽の行動の部分をなおしたのである。その徳永改訂版は、絶版後どこにもみつからないので、やむなく、こんどの公刊に際しては作者が新たに同様の改訂を加え、ほぼ徳永改訂版に近いものにした。
 このような改訂は、あるいは文献性を失うかもしれないけれど、作者の意志は当時の蔵原惟人を主とする作家同盟の友人たちの批判をうけいれて、一九三二年に徳永に依嘱して改訂した版をのこしたいというにあるのだから、それに代わるこんどの版を、最終版とする次第である。……   (以上)