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        貴司山治(きし・やまじ)略年譜               
                      99/9/15(2015/7修正) 伊藤 純

<鳴門塩田争議と作家的出発>

明治32年(1899)<0歳>
12月22日  徳島県板野郡鳴門村大字高島村字南162番地で出生。
     但し本人の記載によると実際の出生はその10日以上前で、届け出遅滞の科料を払うのが嫌さ
     に、母親が届けに行った日を出生日として届け出てしまったらしい。
本名「好市」……コウイチと読むが、しばしばヨシイチとも呼ばれた。また、本人はこの「市」とい
う字が嫌いで、しばしば「好一」と表記したという。

大正3年(1914)<14歳> (その年の12/21までの満年齢を表示・以下同)
3月 板野郡鳴門尋常小学校高等科卒業。(貴司自身は中退といっている)
……この頃から大正末年にかけて、鳴門塩田労働者の争議が毎年頻発したが、この端緒は明治
45年に来村した日本聖公会宣教師マキー女子の教化によるとされている。大正後期になると共
産党系の労働組合評議会オルグが援助指導するようになり、貴司は彼らと交遊をもつようになり、
これが後にプロレタリア文学に入る素地となった。
 またこの頃、青年団活動の中で知り合った福永豊功(ふくながほうこう)と親密になり、社会主義を
語り合うようになった。福永豊功は間もなく、塩田労働組合のカリスマ的指導者に成長していく。
 貴司は、小学校高等科を出て、鳴門の産業組合書記などのアルバイトをしながら、実際の活動
よりは文章を書くことに強くひかれていった。

大正9年(1920)<20歳>
大阪時事新報懸賞小説に「紫の袍」選外佳作(三等)。
9月 大阪に出て大阪時事新報記者となる。

大正11年(1922)<22歳>
    この頃から大正14年まで大阪割烹学校機関誌『婦人之世紀』編集に没入する。
    同誌には「めがねさん」「伊藤生」「伊藤好」「北小路龍子」などの変名で多くの記事、小説など書いている。

大正13年(1924)<24歳>
    秋、時事新報社を退社。

大正14年(1925)<25歳>
東京時事新報懸賞小説「新恋愛行」入選。

大正15年・昭和元年(1926)<26歳>(12月26日改元)
4月 奇二恵津と結婚、5月 東京に転居 作家生活に入る。

昭和2年(1927)<27歳>
11月 朝日新聞懸賞映画小説「霊の審判」入選。12月から東京版大阪版で連載開始。
 

<プロレタリア大衆小説と左翼運動時代>

昭和3年(1928)<28歳>
    
3月 3・15事件(最初の共産党に対する大規模弾圧)。
           労働運動・マルクス主義にシンパシーを持っていた貴司は大きな影響をうける。
8月 東京毎夕新聞に「止まれ・進め」(後に「ゴー・ストップ」と改題)連載。
この頃から「舞踏会事件」「敵の娘」「同志愛」「暴露読本」「バス車掌七百人」などプロレタリア
大衆小説を多数執筆公刊。

昭和4年(1929)<29歳>
2月 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)結成され参加。

昭和5年(1930)<30歳>
4月6日 日本プロレタリア作家同盟第二回大会、中央委員となる。
プロレタリア大衆文学を提唱、議論をよび、いわゆる「芸術大衆化論争」の矢面に立つ。
された。
5月中旬 戦旗防衛講演会のため、江口渙、中野重治、片岡鉄兵、大宅壮一、小林多喜二ら
と京都、大阪、松坂などを巡回。

昭和6年(1931)<31歳>
10月26日 日本プロレタリア写真家同盟結成、委員長となる。

昭和7年(1932)<32歳>
4月 治安維持法違反で検挙、渋谷署と豊玉刑務所未決監に年末まで拘留。

昭和8年(1933)<33歳>
4月小林多喜二虐殺直後「小林多喜二全集」(プロレタリア作家同盟編)編集に参画、発禁。

昭和9年(1934)<34歳>
1月 杉並署に再検挙拘留される。3月釈放。
2月 プロレタリア作家同盟解散決議(この委員会は貴司留守宅で開かれた。)
6月 転向声明を朝日新聞紙上に発表。
6月 治安維持法違反で懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。(この判決は戦後失効)

昭和10年(1935)<35歳>

    1月 「小林多喜二全集」(ナウカ社版3巻全集)の編纂と発行に当たる。

5月 「(株)文学案内社」を創設。雑誌「文学案内」創刊。雑誌「詩人」発刊。
10月 雑誌『実録文学』発刊、実録文学≠フ方法論を提唱。

昭和12年(1937)<37歳>
1月 治安維持法違反で三度目の検挙拘留。年末まで1年拘留。完全転向。
4月1日「文学案内」終刊。名実ともに「プロ文学時代」終わる。
 

<歴史大衆小説と開拓農民時代>

昭和16年(1941)<41歳>
1月 妻恵津肺結核のため死亡。
「維新前夜」読売新聞に連載。後に映画化。
この頃から昭和19年にかけて「木像奇譚」「大扶桑国」「戦国英雄伝」「博多の刀鍛冶」など多数の
歴史大衆小説を発表公刊した。

昭和18年(1943)<43歳>
2月 日野原孝子と再婚。

昭和20年(1945)<45歳>
4月 京都府船井郡胡麻(現日吉町)に疎開。開墾に従事。
 

<戦後・大衆小説と通信社経営時代>

昭和21年(1946)<46歳>
3月 京都府農地委員となり未墾地解放を担当。
4月 文学雑誌「東西」を京都で創刊。(一年継続)
10月 全日本開拓者連盟創立、中央常任委員となる。

昭和23年(1948)<48歳>
京都から焼け残った東京の自宅に帰る。

昭和28年(1953)<54歳>
新聞通信社「(株)作家クラブ」設立。後に「(株)文芸社」と改名、昭和39年まで存続。
この十年に徳島新聞、東京タイムスなど多くの地方新聞に「愛の高原」「浪人絵巻」
「美女千人城」(映画化)「武道はじめ」「禁断片手打ち」など連載小説多数執筆。
社会新報(社会党機関紙)に「東京零時」連載。

昭和36年(1961)<61歳>
徳島の作家のための雑誌「暖流」を創刊。(昭和48年没年まで続く)

昭和39年(1964)<64歳>
戦前非合法時代から秘匿していた高知の詩人・槇村浩の原稿を中心に「間島バルチザンの歌−槇村浩詩集−」
を公刊

昭和44年(1969)<69歳>
藤沢市辻堂に転居。

昭和48年(1973)<73歳>
11月20日、脳梗塞で死去。                       頁頭に戻る

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