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貴司山治 「昭和九年三月二十六日の日記」 全文   


「昭和九年三月二十六日の日記」について  伊藤  純

 貴司は1934年(昭和九年)一月末に、治安維持法違反容疑による二度目の逮捕をうけ、約二ヶ月杉並署留置場に拘禁された。時代は既に満州事変から日中戦争へと軍国主義化の道をひた走っていた。そして、小林多喜二の拷問虐殺、日本プロレタリア作家同盟解散、スパイ松村による共産党組織の壊滅など、プロ文学運動、左翼運動全般が崩壊していく時代でもあった。貴司はこの昭和九年の拘留中に「転向」を声明し、合法的作家活動を維持しようとする「分散抵抗」の姿勢に移っていく。
 貴司は、昭和初年左翼運動に関わるようになってから自ら禁じていた日記を、この昭和九年の転向を期として復活する。この昭和九年三月二十六日の日記は、復活第一日目の日記である。しかもこれは、三月二十六日一日分で三万三千字という長文であり、日記というよりは、プロ文学運動に関わりながら日記を記録してこなかったこの数年の総括という意味をもった文章である。
 そこには、何の調べもなくただ拘留を続ける留置場での様子を始め、転向に至る考え方、プロ文学運動裏面の人間模様などが、貴司独自の毒舌を交えて散りばめられている。同時代の直接資料として興味深いものと考えられる。
 なお、この貴司日記は、この昭和九年三月二十六日から昭和十三年九月に至る期間、すべて、関西大学国文学科紀要「国文学」平成12年11月号〜平成15年2月号(第81号、第82号、第85号、第86号に活字化され掲載されている。
 また「貴司山治全日記」は画像として不二出版(株)から刊行されている。
 ここに掲載した文章は、同紀要に掲載されたものを、再度原文と照合確認し、また一部説明を要すると思われる単語や文章には注解を加えて、まとめたものである。(*注解は斜体で表示) また、読みやすさのため改行を増やし、便宜的に中見出しを加えた。(2005/11/30、2015/7修正)



昭和九年(1934年)三月二十六日

●五十六日間の留置場から
夜になって漸く出る

 一月三十日からけふまで、五十六日間、杉並警察署の留置場に押しこめられてゐて、夜になって漸く出る。
 この五十六日間の留置場生活の中で、すでに到来してゐるところの、重苦しい社会情勢に対応して、とにかく何程かの作家として自分を生かして行くために、合法的な範囲にまではっきりと自分の文学上の仕事を退却させることに考へをきめた。随って過去数年間の「文学苦行」が今度はすっかり姿をかへてしまふ、今後の時間はともあれ創作のための苦行となるだらう。そして、留置場と独房を我が家(や)の続きとしたやうなこれまでの生活は終りをつげた筈だ。
 久しぶりに日記を復活させることができたのも、この方向転換のせいである。今迄は非合法的な聯関のために、日記といふものは書くことができなかった。一番肝心なことは頭の中で記憶しておいてどこへも書きつけないといふこゝ数年間の習慣も、もういらなくなった。
 自分は今後党的な事物と一切手を切ることを決心した。今後の社会情勢の中で、非合法的聯関を有し乍ら一方で合法的活動をやって行くといふやうな條件は維持できない。私は去年一年間具さにこのことを経験した。それは実ににがい苦しい経験だった。
 日本の党は今あらゆる意味からいってボロボロである。党が自己の側にくる作家を指導し、その合法的存在を確保してやるだけの力を持つのは一体いつの事だらう。その日を早く招来するために、一番いゝことは私自身がすぐ様、党の活動に参加することだらう。去年一年中、さういふ考へに強く惹きつけられる機会は絶えずあった。しかし自分は行かなかった。それは単に自分の怯儒のせいではない。自分は子供の時から猛烈な文学の志望者だった。党に接近し、党にはいることを考へる時、その考へをおしとめる大きな投影となるものは文学であつた。私は作家としての資格の上に政治家の資格をほしいとはちつとも思はなかつた。
 故小林などは作家の到達点を政治家に置いてゐた。これは間違ってゐないやうで、実は大きな間達ひなのだ。レーニンはあれ程文学を愛好し、文学に深い理解を示した。恐らくレーニンの文学に対する認識は例へば文学の「専門家」だった筈の故小林に数倍或は数十倍するまで深くかつ正しい。にもかゝはらずレーニンは決してかれ自身文学をやらうとしなかつた。自分は文学に一生手を出さないのだといふことを、心の底からくやしがりながら。
 共産主義者といふものは、いひかへれば単なる「政治家」ではなく、それは完全な立派な人間といふことだ。随って政治的、全体的見地から、彼れは何に対してもさうである如く、文学に対しても正しい理解を持つ。けれどもそのことは、必ず彼れが文学者・文学の専門家−−−でなければならい、といふことには当たらない。レーニンはその区別をよく理解してゐる。作家は、なるべく政治的活動をもなしうるすぐれた共産主義者であってほしい。しかし、このことは作家一般にあてはめる定式ではなくて、希望だ。故小林などはこのことを定式として考へすぎてゐた。すぎたるは及ばざるが如し。どう考へても小林の本質が政治家たるにふさはしかつたとは考へられない。かれの文学はかれの政治的活動によって著しく育てられてゐることは事実であっても、より多くかれの文学はかれの政治の犠牲になつてゐる。文学の完成を政治の経験に求める−−−この単純な方程式は危険でさへある。多くの場合、作家はむしろ政治家ではない。多くの場合、政治家が滅多に作家ではないやうに。
 故小林が政治的活動の中で「地区の人々」や「党生活者」を書いた場合、へんな矛盾を感じた筈だと思ふ。かれが困難な活動に従事する貴重な時間の中で直接かれの担当してゐる政治的任務のプログラムとは一向関係のない小説などを書いてゐるといふことは、ある場合、そんなものを書く暇に、あすの政治的活動のエネルギーを蓄積するため、ぐうぐうねてゐた方がよほどましだとさへ思へた筈だ。ことに日本では、運動が困難で、人手が不足で、少しでも有能な党員には、全く小説を書く暇などを与へることが不可能だといふことはだれにでもわかつてゐる。さういふ事情の中で故小林がムリをしてわざわざ、小説を書く政治上の理由がどこにあるのだらうか? もしあるとすればかなり間遠な理由だらう。
 結局彼れがもぐった後に小説をかいたのは彼れが政治家たる以外に或は以上に、作家であったからだ。これが本当の理由である。そしてかれもレーニンのやうに、政治か文学か、どちらかをハッキリ選ぶ必要をその時感じただらうと思ふ。或はまだそこまで、成熟した考へに達してゐなかつたかれしれない。それはかれの、文学・文化の運動の政治的見地からの指導があまり成功したものでなかつたことから考へても思ひ当たることである。
 自分は去年の夏など、政治か、文学か、の問題に何度かぶつかつては、一応も二応もなく、文学に対してはるかに多くの愛着と自信を感じた。それは自分が政治家的な素質を持っておらず、文学的な素質を持ってゐるといふことのハッキリした自覚の故である。結局自分は作家としての自分を選んだ。このことは少しも間違ひでない。しかし、文学者としての立場を選んだ瞬間に、政治に対しては客観主義的な態度しかとれなくなって行ったことも亦本当だ。私の場合、自分が文学者であるといふ自覚は、自分が不完全な憶病者であるといふことにも、かなり相通じてゐる。

●去年一年中かゝつて日本の党は実にみじめに破壊されて行った

 所で一方、去年一年中かゝつて、日本の党は発展する代りに、実にみじめに破壊されて行った。
*1933年の追い込まれ崩壊に瀕した左翼組織の状況は戦後に貴司が書いた「一九三三年」(この資料館ホームページに収載)という中編小説につぶさに述べられている。

 日本ブルジョジーは政治的にまだまだプロレタリアートに優位した実力を持ってゐる。プロレタリアートの勝利の見通しといふことは、人は口ではいふことはできる。実際にはしばしばそれがブルジョアジーのために撃破されてゐる。去年の年末に、いわゆる赤色リンチ事件がおこつた時、自分はつくづく日本の党の思想的、政治的水準の低さといふものを感じ味はされた。
 自分の文学の仕事の指導誘掖を党からうける望みといふものが殆ど当分−−可なり長い先きまでの当分だ−−不可能だといふことを、痛感した。
 各国の党がその国のプロレタリア文学・芸術の指導の実力を持つやうになつた時は、もはや一人前である、といふことがしばしばいはれる。芸術の指導といふことは、党がマルクス主義的に最も深い経験・最も高い思想を持ってゐなければ不可能であるからだ。党がもしその点で少しでも欠くる所があるならば、必ず芸術に対するあやまつた政治的干渉、その効利的支配、官僚主義的「指導」をまきおこす。芸術はかやうな「指導」のもとでは必ずその発展が阻まれ、作家の問には唯徒らな混乱がなげこまれるだらう。
 現在の日本の党(一九三三−四年)は「リンチ事件」でマルクス主義の原則をふみ外した。それは党の思想的脆弱さあらはれだ。かような段階にゐる党が最も複雑な特殊的なイデオロギー的形態たる芸術の発達を合理的に指導しうるといふことはまづ望めないのである。
 一方、それでも、とにかく日本のプロレタリア文学は、国際的影響を受け入れつゝ相当高い段階にまで経上ってきてゐる。一九三一年度には、党は蔵原惟人のやうなすぐれたインテリゲンチャを有することによって、この間の芸術の発達を指導した。しかし一九三二年の夏から逆に党は芸術の流れを適正に導く力を失ひ、これをあやまつて、せきとめ、悪い状態に氾濫させてしまつた。小林、宮本がこの時期に党にゐたわけだ。一九三三年に入ると党は益々その方面の力を失って氾濫をひどくさせた。私は党の支持者として、党の文学指導の方針の側に立ちつつも、党の側から次第に無遠慮に背反して行く作家−−−作家の間に増大する混乱を眺めて、自分自身の去就に迷ふばかりであった。

*「リンチ事件」:1933年12月、宮本顕治、袴田里見らにスパイとして査問をうけていた小畑達夫が査問中に急死した事件。これがリンチ拷問による殺人なのかどうかについて、法的には戦後訴追が取り消されたが、その後も議論が繰り返され未だに結論が出ていない。

 私の推そくしうるかぎりの、文学・芸術の指導に当つてゐる党メンバーは、文学芸術の経験に浅く、それよりも悪かったことは、プロレタリア文学の基本的な実践形態として党の側から宣伝し主張されてゐる工場文学サークルの実際の活動を現に少しもやってゐないし、やらうともしない人々であつたことだ。
 かくては指導が無力になるのは当然である。
 一九三三年にまじめに文学サークルのじみな仕事を熱心にやった作家は党内にも党外にも、一人もゐない。かくいふ私一人である。一九三三年の末になって、私は党の方針のたゞ一人の実践者だった。そして私は党の方針のとにかくよき部分の支持者として、サークルからいかに、真実のリアルな文学を産み出しうるかといふ問題を経験を通じて語りうる唯一人の作家だった。そのことを威張るのではない。むしろ私のその経験は貧弱なものである。それにも係らず私の外にだれ一人、さういふ真面目な文学上の努力をしてゐるものがゐないといふことは党の文学指導の方針の全体的支持者としての自分自身の姿を敵の前に目立たゝしくさせる結果となることは明らかなことだ。
 私は去年の暮から、検挙されることを覚悟してゐた。党員でも何でもなく、党活動の直接の参加者でもなく、唯党の方針のある一部分に自己の文学上の方針を一致させたといふ態度だけで、その作家を「危険」な地位にさらす程に、わが党の政治的な力といふものが少くかつ低いのだ。
 私は予期の通り捕虜となり、二た月近く、シラミと南京虫の国を旅行させられつゞけた。
 その間、私は文学者としての態度について、蔵原惟人と中野重治の二人のことを考へた。この二人は文学者として、然も政治に対して客観主義的態度をとらなかつた。このやうに、政治と文学を実践的に一致させるのがはんとうのプロレタリア作家の態度であらう、と。尤も私は蔵原と中野を同列的には考へなかつた。蔵原は作家でなく、理論的指導者として、より政治的素質にすぐれており、中野は少しも政治的でなく(作家の集会での活動では政治的な一面もあったが)それ以上に詩人的文学者素質者であつた。かれらは捕はれて、プロレタリアートとして態度を少しも変へる所なく維持してゐるために、−−(蔵原は政治家としての立場からさうしてゐるやうだが中野はそれとは大分違ふ。かれはプロレタリア作家として、党支持者的態度をかへないといふ立場に立ってゐる。随って中野のことを、自分と比較する上で、留置場内で私は実にしばしば考へつゞけた)−−社会的活動の自由を失ってゐる。本来ならば私は中野と同じ態度をとらなければいないのだ。
 去年中、実は私はハッキリその覚悟でゐた。中野と同じ態度とることによつて二年か三年の刑をくひ、出て来てから後のプロレタリア作家としての立場を確保しょう、と。二年や三年そのために作家がその創作活動を休むことは大したことではない。又二年や三年、刑務所の中で暮らすことが作家にとつてさほど異常な出来事でもない。作家は、正に大衆の儀表たるべきものでなければならない。
 −−さういふ考へでは、私は藤森のやうにずるく、立野のやうに小心に、林の如くでたらめに、刑務所行きを回避しはしなかつた。事実留置場に二た月ゐてもさう苦しいとは思はなかったやうに、私は例へぼ立野の如く、警察や刑務所を怖がりはしない。
     *藤森→藤森成吉、立野→立野信之、林→林房雄
 それだのに、さうした去年一年中の私の決心を動揺させたものは、検挙される当日の朝日新聞に発表された治安維持法改正案の條文だった。
 今度の改正案は文化運動に対する弾圧に、この法律の機能を拡張したもので、コップ諸団体の合法性の剥奪がその主眼となってゐるだらうことは前から判ってゐて、去年の十二月に旅行からかへって以来、私はそれへの対応策としてコップの自発的解体(この主張の理論的根拠はあとへ書いておく)を内部で主張してゐた。実に、十二月から一月の間において、コップ内部で最も正しくコップ全体の解体を主張したのも亦私一人きりだった。
     *コップ→日本プロレタリア文化連盟
 私はコップがなくなっても、プロレタリア作家として、より以上に活発にやって行く積もりであった。ことに去年中かゝつて準備した「地下鉄」が漸く緒についたばかりである。−−−。

*「地下鉄」→貴司は1932年春に行われた東京地下鉄の大規模なストライキの顛末を、争議後解雇された共産党員らに取材し、長編小説を計画。1934年から第四話まで雑誌に発表されているが、その後は繰り返された検挙や貴司自身の転向によって中断した。その全文は『貴司山治研究』(貴司山治全日記dvd版別冊2011/1/20不二出版(株)刊)に掲載されている。

 ところが治安維持法改正案には「党支援関係の禁止」の外に「党スローガンの宣伝行為の禁止」なる條文が含まれてゐた。このことは今までもしばしばブルジョア新聞に報道されたのだが、それは当局のわれわれに対する恫喝だらうと視てゐた。ところがさうぢやなかつたのである。
 私が一昨年治維法の囚人となって渋谷警察署のブタ箱で、刑務所行きを待ってゐる頃、警察の役人が私に向つて次のやうなことを述べたのを覚えてゐる。
「こゝ数年間、治安維持法の被告について左翼運動に這入った動機を書かせたその統計によると、プロレタリア文学の影響が九〇%を占めてゐることがわかつた。プロレタリア文学の影響の中では君の「ゴー・ストップ」が六〇%をしめてゐる。−−現在の治維法では之を以て君を処罰することができないので、君が党へ金を出したといふ事実を口実として起訴するのだ。将来はプロレタリア文学の内容が直接治維法に触れるやうに、改正されるだらう。」
 当時、私はさういふ時機の到来することを予測してゐた。そして、何といふ恐るべき時代がやってくることだらうとイヤな気がした。しかしさいういふ時代のくるまでにはまだ少くとも六七年は間があるだらうと思ってゐた。所が二年たゝない間に、早くもそのやうな時代がやってきたのだ。
 この「宣伝行為の禁止」といふ改正案は、プロレタリア文学、芸術の内容を破壊するためにあらはれたものに相違ないのだ。こゝ数年間の、われわれのプロレタリア文学運動の発展のあとをふり返るならば、決してわれわれに対して安閑としてゐたことのない支配階級が、現在このやうな「改正案」を持出してきた事情はたやすく察せられるのである。
 恐らくこの改正案の実施された後の社会に於いては、一九三三・四年まで、相当の、主として実践上の、誤謬を伴ひながらも、停滞することなくその段階をおしすゝめてきたわがプロレタリア文学は合法的場面においては、その自己の理論と実践から非常に大きな退却をする外なくなるだらう。それは今日までに開拓してきた理論の実践−−といふ観点からみるならば、そんなものは恥しくてプロレタリア文学とはいへないといはざるをえないくらゐの、自然成長的なプロレタリア文学へ−−乃至は同伴者的文学への退却だ。そこでは、唯物弁証法的な創作方法は殆ど十分に用ゐるといふことが不可能である。プロレタリアートの階級的必要といふ観点に即して重要な題材を創作の対象にとり上げるといふことが殆ど不可能である。いやこの「不可能」なら現在すでにさうだ。
 退却して、われわれが今後合法的な場面で書きうる小説はそういふ重要な階級的必要に即したものではなく、もつと自然生長的な、ブルジョア的な創作方法からでも生まれてくることの可能な範囲のものに、まづ題材の上で制限されてしまふであらう。
 今日は、林だとか武田(*武田鱗太郎)だとかの作家の創作が、傾向としてすでにそうである。すべてのプロレタリア作家が、林や武田がこれまでも(かれらにはこれこそ)プロレタリア小説だと思ってゐる範囲の題材を書く外に仕方がない世の中になったといふことは、プロレタリア作家にとつては大きくいへば驚天動地である。

             ●逮捕された日のこと

 私はそのことを考へて、重たい気持ちになり、顔色をかへたやうな面持で新聞を眺めながら、朝のみそ汁をすゝてゐた。一体これからどういふ方針で仕事をして行けばいゝのだらうか? と。
 そこへ 「きッさん!」 「あけて下さいッ!」といふけたゝましげな叫び声がきこえた。玄関のドアはカギがかゝつてゐたのではなかったが、把手が少しあきにくいのである。私は一瞬間一寸いぶかつたがすぐに「来たな」と思った。それでも三分くらゐは、さうではないやうに祈りながら、仕方なく玄関をあけに行った。と、小汚いちょこ才奴らが三頭顱、よごれたオーバー、帽子といふいでたちで、おのおの手に犬殺し用のやうな棒を持っておしこんできた。

*三頭顱→三つの頭と顎、つまりは三人、三匹といった意味、三匹と書いてあとでこの難しい漢語に書き直してある

「警察のもンです。あんた、きてもらはなけれや……」
 と先頭の若い男が必要があればいつでもすぐにそうできる職業的な陰悪な面相になって、私の腕をつかみそうにした。
「ちよつと待て……」
 と私はもとの食堂へ引っ返した。スパイたちはクツをぬいで上りこみ、折り重なるやうにして、食堂へはいってきた。
「めしを食ふ間、そこに待ってゐたまへ。」
 と私は亢然といった。そして汁をのみ、飯をくつたがちつとも味がない。私は箸をすてた。
「着物を出して……和服のオーバー、シャツ二枚、……今度は長くなるからね。」
 と私はあとの言葉を小声で妻にいつた。悦子は眼を丸くして箸と茶碗を前においたまゝ固くなってゐた。私は妻を促して二階へ上った。着物の類は二階にあったからである。闖入者たちはくつついて上つてきて、二階の書斉へふみこむと、てんでにそこらをがさり始めた。
 私は着物を着かへるどころの騒ぎでなく何をするかわからないこの泥坊連を監視するために、書斉に突つ立ってゐた。しかし、かれらは本気で捜索する積りはないらしかった。のみならずがさりぶりが幼椎で下手くそだった。相手は私がくらうとだといふことを承知してゐる。で、あまりかれら自身の個人的な趣味で深入りしたがさり方をして、私からかれらの泥坊根性を見すかされるのを懼れてでもゐるやうな様子だ。一人の男は嗅ぎ廻るのをやめて、椅子に腰をおろして、うつむいてそこにあった「ロシア怖るべし」といふ画報をめくり出した。
 かれらの、情けない仕事が一段落終ってから私は書斎の隣の部屋で妻を相手に着がへをした。スパイはそこへもはいってこようとしたが、機先を制して私がスッバダカになったのでさすがに、足をふみ入れなかった。
 私は妻と二人きりになって、留守中の注意をし、逢はねばならぬ人の断り、その日午後一時から作家同盟の中央委員会が現にかれらの嗅ぎ廻してゐる部屋で行はれることになってゐる−−そこで審議するために私の書いた四十枚あまりの原稿のありか−−などを一々妻におしえておいて、おしまひに妻の頭をかゝえて接吻をして(その時かの女はのんきそうな表情になった)、役人どもの待ってゐる書斉へ出て行き、自分から行こうとはいはないで、黙って立ってゐた。
 しかし、時計をみると十一時半だ。中央委員会は一時からだが、二三の者は十二時にくるといふことになってゐた−−ぐずぐずしてゐてそれらの人が一緒にひつかゝつては大変だと気がついたので、かれらの促すままに、私はタバコに火をつけ、それをふかしながら、もうその時はかれらが押入ってきてから物の一時間もたってゐたから、落ちついてしまつて割りに楽な気持で下駄をはいて外に出た。すると裏口の所に、子供がトミチャ(*お手伝いの女性)におんぶされて立ってゐた。いつもなら、私の出かけるのをみたら声をあげて騒ぐのだが、けふは何事かかれも亦生き物の本能で異常をさとつたらしく、妻に似た大きな眼をみはってまばたきもせず私の方をみてゐる。
 私は子供と顔を合し、一寸行くのがたまらない気になり、引返して傍へ行き、頭の毛をなでてやり、頬をさすってやって、何か言葉をかけたのだが、子供は用心して頑固に黙ってゐた。
 通りの角に自動車が待ってゐた。杉並警察署までは物の十分とかゝらなかつた。
 私は特高の部屋で夕方近くまでおかれ、顎にひげの生えた、噂によくきいてゐた草間といふ主任に何だか彼だかと話しかけられ、留置場の中へはいるのを急ぐ必要はちつともないので私も一々相手になりながら、時をすごした。
 たしか五時頃になって、「中」へ入れられた。
 「中」へはいるまで、「主任」との話では去年の十一月に一度「検挙」しにきたそうである。それからその前に、渋谷署からもやってきたのだそうである。私は自分のゐる所轄署へ届を出して十月下旬から旅行してゐたので留守へ御光来になつたわけだ。検挙を命令した警視庁では、私が逃げたと一度は思ったらしかつたが、族行届が出てゐるとわかつて、かへるまで待ってゐたといふのである。そしてけふの検挙は警視庁の、係り警部鈴木の指図だから、その理由はこゝではわからないといふのである。それはかれらの常套語である。私は留置場へはいつてしまつてから、板の壁にもたれながら、けふのやうにして検挙される直接の理由について全協金属のことが去年の夏からバレてゐることを思ひ出してゐた。しかし検挙の最大の目的は、やつぱり、作家としての自分の、プロレタリア的な、コップ的な存在に対する弾圧だらうと、考へた。どつちにしても、二つとも余程前からその覚悟でゐたのだから、自分がこゝへ来たのも、自分からいつても順序通りのプログラムの進行のやうな気がした。
 で、私は留置場の中の二三日間を、私自身今後どうするかを、ゆっくりと考へることにすごした。どんなに短くても三ケ月位は放さぬだろうし、かつその上で私の態度が強ければ保釈の取消しか、何かの名目を設けて新しく又起訴するかするだらうし、どつちにしても、相当こゝに腰をすえてゐる外はないのだ。だからゆつくりと考へ事に耽ってゐていゝわけだ。


●追いつめられた作家同盟の内情

 私の考へ事といっても、こゝへ来て始めて湧いた新しい考へといふものは何もなく、皆去年の特に夏すぎから、考へつづけてきたその続きである。一と口にいへば、今後のプロレタリア文学運動はどうなるべきか、いかにすべきか、自分はこれからどうすべきかの二つの問題であった。
 一九三二年の暮、自分が出獄してから、又三三年二月に小林が虐殺されてからの、プロレタリア文学運動の内部には巨大な萎微沈滞の時期がやってきた。いやすでにそうした傾向は自分たちが検挙投獄された直後から起ってゐて、小林などは非合法生活に入って、極力そうした傾向と斗ってゐたのである。しかし、その傾向は一般的に増大するばかりで、小林の死後、三三年度はまことに美事な沈滞が支配した。その直接の原因は、鹿地、山田、川口の三人を中心とする同盟幹部の無能力からきてゐる。
        *鹿地→鹿地亘、山田→山田清三郎、川口→川口浩
 かれらは小林の死後、めいめいの検挙を怖れて逃げ廻り、文学新聞や「プロレタリア文学」の編輯刊行をサボリ、極力何もしないやうにしながら一方では書記長だ議長だといった地位に、極端にかぢりついた。そのかぢりつき方は不思議なほど執念深かった。
 たとえば、三三年春の大会だ。右の三人を中心とするその系統の幹部たちは、大会をうまく組織し遂行する力を持たなかつた。おまけにかれらの一流の極めて反良心的な、固息な小ブルジョア的習俗に富んだ互ひの馴れ合ひでとかくの情勢にかこつけて大会をサボった。そして大会を分散的に、非合法的にやる必要があると称して、その実、いゝかげんに自分達のブロックに都合のいゝやうにして、自分達のブロックだけで「役員」を独占してしまった。
 そういふ仕事になると、川口、鹿地、山田といふ三人の男はなかなか「手腕」があり、イキが合ふのである。
 かれらはその際、方々で盛んに、同盟の極めて小さな一単位である「吉祥寺班」をデマった。「吉祥寺班」は、かれらの大「野心」の遂行にとって大きな目のうえコブたった。
 いや「吉祥寺班」といふよりも江口(*江口渙)と私が目の上のこぶなのだ。
 特に三人にとつていやないやな人物は貴司山治であった。山田は関西の代議員を集めた席上で貴司が口ばかりでとやかくいって同盟の仕事にちつとも参加せず、あんなのは客観主義といつてよくない傾向であると宣伝し、その代議員の中に二人だけ、私の家に泊ってゐるものがまじってゐるのに気がつくとあはてて「しかし貴司君は最近は小林全集刊行会の仕事をやり出した」といひわけをしたそうだ。だがもつとひどい中傷だと思ったのは「吉祥寺班は酒をのんで班会を開いた。」といふことを文化聯盟や党の線へしたり顔に、報告してあったことを発見した時だった。
 その報告をねつ造したのは三人の百%のロボットだった佐野嶽夫である。佐野が三人にそういふことを告げ、三人承知の上で佐野がコツプの書記局への正式報告の中にまでそういふことをつけ加へたのには、大いに理由があるわけだった。
 それは江口が佐野に対してつまらんことをしやべったのが動機である。江口といふ年とつたこのしまりのないおしやべり屋は、佐野のやうな男をつかまへて、鹿地が故小林に対立し、小林たちが支持してゐた文化サークルに関する党の決議にどこまでも抵抗したといふことをしゃべり、「党の統制の上からいへぼ鹿地は銃殺ものだぜ」といつたのである。その際、江口は「鹿地・山田輩は役員病患者だが、吉祥寺班には逆に役員忌避病患者が一人ゐる。それは細田民樹だ。役員にならぬやうに手を合はしてたのむので班では細田を役員にすゐせんしないことにし、無事落選したらビールをおごるといふことになつている」といふやうなことも一緒にしやべった。
 とにかく佐野はお家の一大事とばかりとんでかへって山田・鹿地・川口の「三巨頭」にそのことをご注進に及び三巨頭は悲憤こうがいして「党の内部のことが江口などにもれてはわれわれはたまらない。これはきつと江口に対して、貴司がしやべったのだらう。とにかく、こういふことを外部にもらしたことについて厳重なる責任を問ふ」といふ意味のことをかれらはコップ書記長に向つて抗議したらしい。又かれらが江口がしやべったことを、何故私の方へ転化して、私を目角にとるかといふことは、私がコップ(随って党の)文化サークルの方針を支持しそのやうな評論をかき、出獄以来コップ的な存在としてかれらの目に映じてゐるので、かれらにとってはどうせ貴司があゝいふ風な態度でゐるのは党の線に何かの方法でふれてゐるからに達ひないと思ってゐるためである。
 そして三人は小林全集刊行会の仕事で私と共働するやうになつた保釈出獄中の宮木喜久雄に対して「尚よくそういふ噂の出所を君は貴司君などに接近してゐるのだから調べてくれ」とたのんだそうだ。


●潜行幹部・杉本良吉との面談

 一方三人から抗議をくつたコップの書記長は当時もうコップ書記局は完全な非合法に陥入り、書記長はコップ内党フランクション・ビューローの書記長をかねてゐるといふことが敵の前にまるで公然の秘密となつてゐることを、自分の方でもずるずるべったりに承知してゐたので、抗議をくふと同時に、抗議の内容が党の問題でもあるので、党として、党からといつて私をよび出しにきた。その便は宮木で、宮木と一緒に行ってみると、約束の場所へきてゐるのは潜行中の杉本良吉だった。
 その時はもう夏だつたので杉本は縞の羽織を着て色の白い、色魔のやうな顔に、こつけいなちょびひげを生やしてゐた。かれは
「きいたでせうが、江口のしやべった鹿他の問題について、作家同盟の中央常任のある人々から、洩らした経路を明らかにしろ−−といふ抗議がきてゐるんですがね。」
 といふのである。

*杉本良吉→この後1938年にスター女優岡田嘉子と恋に落ちソビエトに越境亡命し世間を驚かせた。しかし杉本は亡命後ほど無くソビエト側に銃殺されてしまった。

「で僕にどうしろといふのですか?」
 私は杉本良吉を写真では知ってゐたが、ご本尊をみるのははじめてである。かれがもぐつてゐるのはもう二年越しで、その間に文化運動には幾度かの転換と激動の時期があったのだから、もぐって何等かの部署についてゐる筈のこの人などは、もとから相当の政治的能力があるならば、われわれにもつと手答えがなければならぬ筈である。所が杉本だとか生江(*生江健治)だとか手塚(*手塚英孝)だとかいふ名だけは前からきいてゐる党活動者は時々何かの折りにその名が出ると「あいつまだつかまらないでゐるんだね」とかもつとひどいのになると「手塚はつかまつたんだよ」「いやまだゞよ」とかいふ風にいはれる位、われわれの間に存在的勢力がないのである。
 勿論これらの人々が党の一兵卒として、テロルに対する固い決意を持って困難な仕事に従事してゐるだらうことは想像にかたくない。党活動は何も個人の活動ではないのだからそうした無名戦士の多くの働き手によつて全体としての英雄的な活動があらはれるのだといへぼそれまでの話だが、それにしても、われわれの間に、蔵原惟人といへばかれがもぐつてゐても実に大きな存在であり、かれがやられたと知ると衆皆失望落胆するといふ有様で、それ程に匿名でかく、かれの指導的論文からの影響をうけ、かれがどこかにゐるといふことのために勇気づけられてゐる者が何百人、或は何千人といつてあつたのだ。杉本などは成程やられてからの態度は蔵原や宮本、小林以上に立派だったらしいが、コップの書記長として、文化運動者としてのかれから、私などは全く何の影響もうけた覚えがない。
 逢ってみると成程、何よりも杉本などは政治的能力が大へん少ないといふ感じなのだ。
「僕の方としては江口がだれからそれをきいたか一応しらべなければならんし、統制の問題として、成程鹿地などの抗議がムリはないと思ふわけです。何しろ組織の内部でそんなことが噂として伝はっては合法的にやってゐるF(共産党フラクション・合法組織内で秘密党員として活動している人々)の連中はたまらんですから。」
「だから、はっきり統制を示さうといふんですね」
「さうです。」
 私は杉本といふ男がこういふ問題に、こういふ風にこだはってゐるやうでは、政治的に無能力だといはれても仕方がないと思った。私はからかふ気持になつて答えてゐた。
「それなら、きまりきつてゐるぢやありせんか。」
「といふと……」
「だってあなたの方は−−党は−−Fをばらしたり、党内の秘密を、江口のやうな党外の人間にしやべったりする筈はもともとありえないことでせう。」
「勿論」
「ぢや、作家同盟の抗議をよこした連中に、その通り答えて、以ての外であると叱りおけば沢山ぢやありませんか。」
「しかし……」
 とかれは幾分テレたやうな表情で
「噂が事実であるとすれば……」
「そんなことにこだはるのはどうかしてゐますよ。第一、作家同盟の連中がどんな意図でそんな抗議なんか持出すのかわからんわけではないのだから、ますますあんたの態度はへんですよ。」
 私がそういふ風にいひ立てるので杉本はとりつく島がないと思ったのか、それとも考へが変ったのか、沈黙してしまつた。私はこのことのために私をよび出したかれの底意がけしからんと思って腹の底では幾分憤慨してゐるのである。
 かれが黙ってしまつたから、私は答えてやった。
「僕がそういふことを江口にしやべったとあなたは思ってゐるんでせう。成程僕は死んだ小林からそういふことをききましたよ。しかし一と言も口外しませんよ。そんな道理がないぢやありませんか。川口とか山田とかは、このことで僕を目角にとつてゐるそうだが、けしからんですよ。」
 杉本は賛同するやうに真面目な表情になつてうなづいた。エロ吉などといふ綽名があつて女をたぶらかすのにはとても冷酷な男だときいてゐるかれが、逢ってみるとたゞの善人だと思った。
 実は江口には私がそつとしやべったのである。江口がきつとだれかに放送するだらうと予期して……。しかし、私は必ずしも鹿地を陥れるのが目的ではなかつた。その少し前、鹿地自身が、死んだ小林のデマゴギーをふりまき始め、小林は敗北的な気持になつて小樽へかへりたいといつてゐた……といふことを方々へ放送したのである。それから宮木には、党中央部の決定といふことを承知の上で、文化サークルの方針に反対したといふことをしやべり、僕は処罰されても仕方がないんだ……といふことをしやべってゐるのである。
 私は鹿地をとにかく不屈な奴だと思った。
 かれがこの二つのことを(小林のデマとサークルの方針に反対したこと)尚ほも方々へ巧みに宣伝する恐れがあると思ったので、もしそんなことをすれば、その結果がどんな風にひろがるかといふことを目にものみせてやる必要がある−−と私は考へた。そこで江口の軽口を利用するのがいいと思ひついた。
 私は江口の正義感を煽るやうに、鹿地が小林のデマをふりまいてゐることと、サークル方針に反対したこととを、告げたのである。江口は委員長をやめさせられ、自分の代りに山田が中央委員会の議長とかいふお手盛りの役目についたのを怨んでそういふ策動一切を鹿地・山田ブロックがやったと信じ(又そうでもあるのだらうし)鹿地を一入嫌ってゐたので、私の話してやったことは江口にとっては火に油をそゝがれたやうなものであつた。かれは胸におさめかねて、佐野が来た時に、佐野などにしやべれば鹿地につゝ抜けだといふことをわきまへる心の余裕も何もなく、「鹿地はけしからん奴だ」といふ風に、二つの問題を、しやべったのに達ひない。事は案外早く思ふ壷にはまり、山田・鹿地・川口ブロックは江口にまでそんなことが伝はってゐるのに、仰天し、その背後に貴司山治が策動してゐるかもしれぬといふことをしきりに感じて怖れ、宮木をとり入れて私に対するスパイにしようとしたり、方角達ひのコップ書記長杉本にねぢこんだりいささかあはてふためいてゐるのである。
 山田などは宮木をつかまへて
「君は貴司などと違ってまだ健全分子なんだから……」
 といふ風に抱きこみをやった。
 大体かれらは三三年の大会で自分たちだけできめた役員や方針を「大会」の名で決定してしまふ間、三週間以上、コップとの聯絡を切り、何といって呼び出しても出てこず、やつと出て来た時には佐野が書記長になったり、怪しげな中央委員会がでつち上げられたあとで、コップの方ではみごとに一杯くはされ、杉本や池田が作同(*日本プロレタリア作家同盟)のこのやり方、作同といっても、鹿地、山田それに川口あたりの−−にあきれてしまったゐる、といふことを私がきいたのはまだそう遠くないことだった。そういふ風に仕向けられても小林以来、コップ書記局は、作家同盟のその連中に対して何の処置もなしえないのである。
 今ではもうコップ書記局乃至書記長の無能といふことを、鹿地や山田の方でよくのみこんでしまつてゐるのだ。それでこそ、今度のやうに遂にねぢこまれて、それを又杉本のやうなお人よしが、まじめに悩んでゐるのだ。
 −−杉本は腕時計をみて、もう別れて行きたそうにした。私は別れるまでにぜひ自分で立てたプログラムを全部とにかく遂行してしまはないと仕方がないと思ったので
「しかし僕にはそういふことが江口のみならず方々へもれてゐる……もらして歩いてゐる人間の心当りがありますよ。」
「へえ……それはだれですか?」
 と杉本はすぐ乗っかってきた。私はわざと急いでは答えないで
「僕が小林からそういふ事情をきいたのは二月上旬ですがね。その一と月前に……僕が保釈で出てくるとすぐです……そういふことをききましたよ。壷井の細君とか村山の細君とかが皆そういふことを知ってゐるんです。コップのいろんな部署で働いてゐる者は皆知ってゐやしませんかね。」
    *壺井→壺井繁治、壺井の細君→壺井栄、村山→村山知義、村山の細君→村山籌子
 私のいったことは少し嘘だった。三月頃宮木が保釈で出てきて、壷井の細君の家に同居してゐる間に村山や壷井の細君連の間でそういふ話を耳にしたといふことを私に宮木が話したのである。どつちにしても同じことだと思って私はこの場の話に効果を持たせるよう、少々時期をくり上げて言ったのである。
「それでよく調べてみると、サークルの方針に反対したといふ話は、鹿地自身が洩らして歩いてゐるんです。もし査問委員会にかけるのならば、かける人間は鹿地なんです。山田や川口にそう返事してやればどうです。」
 私は鹿地が村山の細君にそうしたいろんなことをしやべってゐるらしいことは、村山の細君の口裏から察してゐた。
 私には村山の細君のやうな女性は大へん苦手で、なるだけ近づきになることを避けてゐたのだが、五月頃、籌子さんの育ててゐるセファードの仔犬を一頭ゆずりうけたゝめ、交渉が生じ、犬の代金の月賦の金を持って行ったりした序手に、犬の話とか世間話とかよりも、ぜひともしてみたそうに文学のいろんな話をして、ことに獄中から主としてかの女によこした蔵原の手紙が本になつて出版され方々で評判になつてゐる時だつたので、その書翰集の内容のそちこちについて、しきりに私の考へを問ふのであつた。その際かの女は、鹿地が小林とひどく対立し、党からうとんぜられつゞけたが、蔵原の新しい意見の一部が小林などの機械的な一部の考へを訂正してゐることからひいて、小林に反撥した鹿地が今になつてかあいそうだといつて、かれに対する同情を表明するのであった。
 それでみると籌子さんは鹿地と交際していろいろな内部的な秘密の話をはつきりか暗々にか鹿地からきかされてゐるらしい。しやべって歩いてゐるのは鹿地ですよ−−といつた時には、私の頭の中にはそのことが浮んでゐた。それからつゞいて言った。
「ことに、鹿地は小林のデマをふりまいてゐる……」
 と私は小林について鹿地のいつてゐることを伝へ、
「今になつて何の意図でそういふことをしやべるか、死人に口なしで、鹿地のやり口はバカだといへぼそれまでだがタチが悪いですよ。山田や川口がコップへねぢこんでゐるのならば、一つそういふことも明らかにして、大会以来のかれらのやり方をとつちめたらどうです。」
 その時、杉本は額の汗をふいて
「いや、それはおどろいたなァ。小林が成程ある時、ある場所でそういふことをいつたのは僕も知ってゐますよ。嘘ではない。しかしそれは小林君が冗談にそういつたんで、それをそんな風に悪用するのはよくないなあ」
 こゝで物足りないのは、鹿地がその時池袋署か杉並署かへ留置されてゐてゐないことだった。いつかへってくるかわからないし、本人のゐない時に、問題を徹底的にせんじつめるといふことはできないからである。山田や川口は鹿地に牛耳られてゐるお脇立ちなのだから、その二人しか今ゐない時に、事を荒立てても結局龍頭蛇尾に終るだらう。
 で、鹿地がかへってきてから問題にしようといふ杉本の言葉をきいてそれがよからうと思ったまゝ、私は、別れて自宅へかへつた。
 この会見の間、宮木は傍についてゐたが、かれはこれだけでの、応酬をハタで見物してゐて、コップ書記局の無能といふことを更めて感銘し、貴司といふ人間の人の悪さが相当タチの悪さにまではいってゐることを感じ、山田や鹿地が、貴司をたえず煙たがりつゝ目の敵に思ってゐることを道理のあることに思った。一方、宮木は貴司は山田、鹿地のやうな連中よりもはるかに「政治的手腕」があると思った。その際宮木は貴司の「政治的手腕」とは小ブルジョア的な駆引のやり口がうまいといふことにはすぐに解釈しないでしまつたらしかった。これはあとで、この時のことをいろいろいつてゐる宮木の口裏からの判断である。

●一大ジャズを奏し続ける中條(宮本)百合子

 序手に書きつけておいていゝのはこのことについての、中條百合子(*宮本百合子)のおせつかいである。
 この人は指導部の中でコップの流れを汲み、直接には鹿地に、ひいては山田、川口ら鹿地一派に対立する唯一の僅少な勢力であり、たった一人の健全「左翼」分子であった。だから本来なれば、自分など大いにこの時期に中條に親しんでいゝ筈だったのだが、自分にはどうしてもこの人が親しく思へない。この人に対して湧くものは尊敬でなくて滑稽感であり、揶揄感である。
 その理由は今こゝには省いておくが、とにかく、この人は「健全分子」といふだけのことでちつとも指導的実力ではなかつた。この女は指導部の中では人々を迷惑がらせる一大ジャズを奏しつづけてゐた。それでも最大限に文学運動に寄与してゐると本人は思ってゐるのだから始末が悪いのである。ずつと前からそうなので、私は宮本顕治がこの人と結婚したといふことをきいた時、宮本といふ人間に対して信用のできる範囲がおのづからわかたった気がしたが、まことに中條百合子は急進的小ブルジョアがプロレタリア文学運動の中へ参加してきて良心的なあまりに、身の程を忘れた絶好の見本である。
 かの女に何よりもいけないのは、おしゃべりがすぎてちつとも勉強しないことである。この女は恐らく左翼へ転換してきて以来、その基礎的な教養を固めるための一冊の本も読んだことはないだらうと思はれる。
 さて、その中條がどこからか−−多分杉本か池田あたりから−−鹿地一派の抗議事件といふのをきいてきて、目の色をかへ、どこかで宮木をつかまへて「あなたから貴司さんに、班会で、合法的に問題にできないことなどをやたらにしやべらないやうによく注意なさい」とおせつかい立てをしたのである。宮木はこれまた大してわきまへの深くない幼稚な一面の目立ってゐる男だし、よく噂を好むタチなので、すぐさま中條の話をありのまゝに私にしやべった。私は非常に憤慨した。「班会でそういふことを問題にしてゐる。」などとかの女は漫然ときめて、よけいな口出しをするいつものクセを、折があつたらとつちめてやらうと思った。
 間もなく何かの用でかの女が私の家へきたので、私は手きびしくかの女を詰った。
 「班会で問題にしたといふ証拠を出していゝだらう。君はまるで僕らのデマをふりまいてゐることに気づかぬのか」
 と。
 かの女は真つ赤になつて、機関銃のやうに何やらわけのわからんことをしやべりまくつた。
 要するにしらぬ存ぜぬといつてゐるのである。そこへ折あしく私の家に寄寓中の宮木喜久雄が外からかへってきた。かの女は早速、宮木を別室へつれこんで盛に口論してゐた。間もなく宮木は出てきてプイと自分のヘヤへはいつてしまひ、中條は泣かんばかりの顔つきでかへって行った。
 中條のことをこゝへこんな風に書くわけは、プロレタリア文学運動のこの時期における指導部員としてのこの人の位置や中身がそつくりよくこの話にあらはれてゐると思ふからである。
 要するに、かくして客観的條件の困難の増大する時期に、内部的に、人的に、組織はもはや腐朽してしまつたのだ。
 私がコップの主観的要素の崩壊といふことに逸早く気づいたのは小林全集刊行会の仕事を通じて、全コップのどの同盟のいかなる機関ももはやその機能が停止してゐるといふことを知った八九月ごろだつた。
 以来数ヶ月間に、状態は益々悪化した。この数ヶ月間に、特にそのコップの、党の、文化運動に対する政治主義的偏向が、ソヴェートにおけるラップの解散再組織運動にてらし出されて一般に明らかになつてきたのである。文章の上にこのことをまとめて最も正面的にコップの批判をやったのは、流石に鹿地亘だけだつた。鹿地は始めてこの仕事において、さすがに川口や山田とは違ってナルプ(=作家同盟)内のフラクションたるだけの腕を示した。
 しかし鹿地の「 (原文空白) 」と「 (原文空白) 」といふ二つのパンフレットの論旨には、かなりに危険なかれ自身の右翼的誤謬もふくまれてゐる。しかし、とにかく鹿地だけが、体系的にコップの方針の欠陥をみごとに批判した。中條とか川口とか山田とか窪川(いね)(*窪川稲子=佐多稲子)とか、中央委員はいくらゐても、鹿地のしたこのやうな仕事はできないのみか、川口や山田はいざしらず、中條や窪川はてんで鹿地のやった仕事の内容を理解もできないでゐた。

●腐朽した作家同盟は解体すべきだ

 私はこれより少し先、十月頃から、内部的に、コップ解体の意見をコップへ持ち出してゐた。私はそれに関する主観的客観的情勢の判断において、結果からみて決して間違ってゐなかつたことを今なら十分にいふことができる。しかし一九三三年十月頃のコップ(党)は、情勢に対する対策といふものをまるで持合はさず、たゞたゞ解体反対だつた。

一、治維法の改正案が実現すればコップの組織の合法性がなくなること。
二、文化運動の大衆的組織を非合法的性質のものにすることは、誤謬であること。(小ブルジョアインテリゲンチャ作家の多くを包含すべき性質の文化運動は非合法組織としては殆ど成立しない。)
三、過去の政治主義的、左翼的伝統にわざはひされてゐるコップは自ら先手をうつて解体して、成員を他の新しい活動形態へ移行せしめなけれはならぬ。

 これらのことが、最も責任のある党において、極めて観念的に取扱はれるだけで、少しも具体的な対策としてあらはれてこないのであった。
 私は夏中ずつと全協金属の中央部の仕事に参加してゐたが、こゝでも、全協の再建拡大のための具体的方法として金属のイニシァチーヴで全協が提唱した単独組合政策に対し、党はさまざまな観念的な主張のもとにこれに反対し、非難し、その実現を阻止してゐた。私のきいたかぎりの党の反対意見といふものは、取るに足らぬ机上論ばかりである。それらの党の意見は当時の赤旗その他に度々発表されてゐたといふことだから人が皆知ってゐるだらう。

*全協金属→全協金属労組、当時の有力な共産党系の労働組合
*プロフィンテルン→コミンテルン系の国際労働組合組織

 しかし、この単独組合政策はプロフィンテルン第五回大会の決定であり、全協のオルグの実際経験から必然におこつてきた対策だったのだ。之に反対する党は、では何を代りの対策として与へようといふのかといへぼ、首肯できるやうな対策が何もないのである。
 当時、宮本顧治などが党の指導部にゐたわけだが、この人達には「綱領」から「政策」までの仕事には十分に政治的能力が具はつてゐるやうだが、その次ぎの最もかんじんの「対策」を立てる上の手腕が殆どなかつたかの如くである。政策が、対策となつてどんどん大衆に与へられて行く党でないかぎり、大衆と離れるし、大衆を指導できないのは当然の帰結だ。
 党は全協を指導できず、之と対立し、全協の側にゐた私の観察では、党がその観念的傾向から、全協の発展を著しくこの時期に阻止したといへるのである。
 この、党の政治的未熟さ、対策の欠如、が文化運動に対してもイカンなくあらはれたのである。私は三三年十月に、実にこの感を深うした。そして、仕方なく、入獄準備をかねて家族をつれて一時郷里へかへった。
 それについて、自分の文学者としての立場をひどく苦しみ考へたことを書いておこう。
 ある斗士は右のやうな私の批判的意見をきいて「それだけわかつてゐるなら、自分でやるのが当然ぢやないか。君の態度は客観主義だよ」といつた。
 その時は、私はそれでまいったのであるが、あとで、どうしても腑におちない。第一、先方のいふことは正しいとしても、今日党なりコップなりのそうした大きな欠陥といふものが、私の態度が客観主義だといつたゞけでは解決しはしないのである。それから、私はそれなら自分でやる−−といふ壮大な第一流の考へを何度も自分の上にあてはめてみた。するとまことに不似合で、非実感的なのである。到底私はそんな柄ぢやない。斗士のいつたことが「お前の柄でそんな批判めいた大きなことがいへたもんぢやない」といふ反語のやうである。
 さうだ。三三年中、私はコップの側に立って小林多喜二全集刊行会の責任者となり、金属中央部の若干の仕事にも参加した。それらは、しかし、はつきりと、作家的欲求からおこつたことだといへる。
 私は全く客観主義だったのぢやない。
 私にあっては作家的欲求で動く範囲が、限度であつて、それ以上にはみ出ると、そこに純政治家的な活動となつてくる堺目がすぐに感ぜられ、その瞬間に私は動く興味を喪ひ、立ちすくむのだ。「こんな方へ突走れば−−作家の仕事ができなくなる……」 これがすぐにやってくる私の意識だつた。
 要するに、私はその素質として文学者なのだ。このことは非常によく自覚してゐる。だから、どうしても意識なり、仕事の範囲が、政治家の場合よりも小さくなる。生活的振幅が小さくなる。随ってわからんことは百%に政治活動をやってゐる連中によくきゝたい。今までずつと私はそうして、「政治」にたよつて歩いてきた。
 評議会のシンパのやうにしてやってきた昔からそうだ。

*評議会→大正末期から昭和初年にかけて存在した共産党系労組全国組織。貴司は鳴門塩田争議を介して評議会メンバーと親交を持ち、それがプロ文学運動に傾斜するきっかけとなった。

 このことは、文学に対する政治の優位性といふ命題を具体的に物語ってゐる。
 そこで、ある一人の作家があって、どこまでも作家的に動く時、かれは結局政治に対して、常にある程度の客観主義者であるといふことがいへると思ふ。作家の実践なり、政治に対する意見なりを、政治家の側から客観主義だといつてやっつけることは大体無意味なことだといへる。作家が政治家に常に転向するものならばいざ知らず、作家といふ範疇が存し、政治家いふ範疇が厳存する以上、両者の関係は大体において作家が政治に依拠し指導されるのでなければ常態でない。
 要之芸術家の、政治に対するある程度の客観的態度はやむをえないことで、あながちそれを以て責むべき所以のものではないと思ふ。
 私は三三年十月頃につくづくこのことについてひとり感を深うした。そしてふとゴルキイのことを考へた。ゴルキイはレーニンにたえず指導されてきた作家である。だがもし、ボルセヴイキ党中にレーニンのやうな人がゐなかつたら、ゴルキイは政治から作家として利益を享けたであらうか? 恐らくその時はゴルキイが政治的にボルセヴイキに背反した時期に、ボルセヴイキによつて葬られてゐたかもしれない。
 私は自分を何もゴルキイに比するのでは決してないけれど、プロレタリア文学に投じて以来、もし蔵原惟人のやうな批評家がこの陣営にゐないとしたら、恐らく私は党から作家としてさう大して利益を与へられはしなかつたに達ひない。蔵原がゐなくなってから後の時期に、私は党から又党的な物から、全くこれといふ作家的利益をうけたことがない。勿論、蔵原がゐた頃よりは、はるかに私自身が成長したのもその理由である。十月には、文学運動に関する党的見解と相合はずして故郷へかへった時に、私は漸く日本の党の成熟の程度といふもの−−日本の労働者階級の成熟の程度といふものを再認識するに至った。そして、こゝ当分少くとも三年や五年、或は十年も、私は党的−−政治的指導を受けることなしに、自分の文学上の仕事をやって行くだけの自信を持ってゐると思った。
 今では文学において、党はかくいふ私自身よりはるかに後方にある−−こうはつきりと考へた。私は自分の文学の仕事の上に、現在の如き程度の、「政治」を必要とはしない。これが、現実の、私の場合における「政治と文学」のテーゼであり、公式である、と。
 この考へは、十二月に再び帰京していよいよ確定づけられた。
 帰郷してみると文化運動の情勢は形勢益々非で、拾収すべからざる一般的恐怖と混乱の状態に陥ってゐた。コップ及び党は相かはらず十年一日の如く、成員の日和見主義を指摘し、号令や激励によってそれをくひとめ、駆除することができるといふ考へ以外、殆どこれといふ対策を立ててゐないのであつた。


●私はコップの自発的解体を極めて強硬に党に向つて主張した

 私はコップの自発的解体といふことをコップの線を通して、極めて強硬に、かつ解体の方法や時期、解体后の活動の形態をまで明らかにして、党に向つて主張した。私の意見はコップ書記局でとかくのセンセーションをおこした。
 その結果党の中央部のそのことの責任者が「事重大だから慎重にこちらでも協議するから、それまで自主的にそうした意見をどこへも出さないでくれ」といつてゐるといふことが私に伝はつてきた。その伝言をよこしたのは宮本だらうと思った。
 しかし、十二月下旬に、風邪のため大阪(*妻悦子の里、現大阪府茨木市)でねてゐる妻と、妻の傍にゐる子供を迎えに行き、東京へかへる汽車の中で私は「宮本遂に逮捕さる」といふ朝日の記事をみたのであった。私の心はスーと暗くなり、万事休す矣といふ感じがした。恐らくその時の党に、さし迫った文化運動の問題についていくらかでも創意を持ってゐるものは宮本以外にゐないだらうことは明らかだった。その宮本がゐなくなれば、文化運動はもはや最後の支え柱を失った朽ち家の如く、てんでんばらばらに崩壊してくることは火をみるよりも明らかだったのである。
 のみならず、宮本の検挙といふことはある意味で党中央部の一時的潰滅を意味してゐはしないかといふことも考へられた。
 このことは、私の予想以上の姿となつて現実にあらはれてきた。一月に入ってからか、はしなくも暴露した「赤色リンチ事件」。この事件は党が遂にマルクス主義者としてイデオロギー的に崩壊した姿である。共産主義運動の組織者としての能力を喪失した姿である。
 そしてこれらの大破綻は、その時に突如としておこつたものでなくて、党の歴史の中に含まれてき、それぞれの時期に、それぞれの形態であらはれてきた欠陥の総決算であった。(日本の党の最大の欠陥は、十三年の歴史を通じてみる所、自己批判の能力の著しい欠如といふことである。)
 勿論、日本に労働者階級が存するかぎりやがて党は再生するであらう。而して成長するであらう。しかし今自分の目の前で演ぜられた一九三四年一月の党の挫折は、何といふのろはしさか。かつてない位の惨憺たる破局である。
 (このことは、今これを書いてゐる三月下旬には、更に、かつてない深刻な内部的な、根こそぎ的破綻であることがわかつた。宮本のゐなくなつたあとの、党の最も枢要な部署は、あれほどの「リンチ」的清掃運動にかゝはらず頑強にスパイによつて占領され、リンチ事件のあとの、清掃運動の一方法として行はれた党員の再登録−−二月末日までに、全党員及び党外積極分子がその斗争経歴を党へ提出したこと−−が実にスパイの「政策」であり、根こそぎ的検挙の準備であつたことがバレ、袴田と称する「中央委員長」がそのスパイの元凶だといふことが盛に流布され、而も斗争経歴書を証拠物件とする疾風的検挙が行はれてゐる等々。)
 これらの経過中に、コップ及び党は、文化運動に対して全然無対策といふのではなかつた。分散的活動形態への転換といふことと、団体外に外廓的文学雑誌を創刊する(作家同盟に対しては)といふことの二つが示されてゐた。
 私はその第一の対策についてそれが不可能であつて、そこからは何も生まれて来はしないこと、来る二月中旬から下旬の間に、更に情勢が悪化して文化団体成員の活動分子の検挙が必ず行はれ、そのあとではかゝる方針の施す道のないことを従来しばしばコップに向って説明し、二月上旬、中旬の間に自発的にコップ全組織を解体し、作家同盟についていへぼ同人雑誌、進歩的文学雑誌(営利雑誌)にそれらのメンバーを結集せしめることによつてその合法面を確保し、おもむろに工場文学サークルを基礎とする革命作家同盟の非合法的或は合法的な再建をはかること、それは主観的條件の成熟の速度如何によつて何年先きになるかわからない−−といふことを主張してゐた。
 一月に、私は作同中央常任委員会へよび出され、この解体方針を主張した。その少し前に、私は中條、鈴木(清)、宮木、窪川夫婦等に個人的に私の意見をのべてかれらの意見をきいた。私はまだ自分の解体意見をコップの線へ出す以外、これらの人々にすら話したことはなかつた。宮木と鈴木は私の考へにすぐ賛成したが、中條と窪川夫婦は私の意見をきいてたゞたゞ慨嘆するばかりで、結局かやうな意見を抱いた私を非難するといふのであった。それでは君は一体どうすればいゝのかと私はきいた。すると、窪川鶴次郎は言を左右に托して遂に何も答えず、答える自信が全然ないのだといふことが私にわかつた。中條は、どうしていゝのかわからぬと正直に答えた。窪川いね子(*佐多稲子)は唯びつくりして目をみはってゐた。
 私を中央委会へよぶといふことは、中條あたりがコップのいひつけで、夏頃から度々会議に持ち出してゐたのであるが、夏頃にまだ川口だ、山田だ、何だかだと一族郎党が大分ゐたので、御大の鹿地が極力反対して実現しないでゐた。
 中條はそれにもかゝはらず、私の所へやってきて中常委会へ出て鹿地ブロックにあたり、コップの方針の実現のために斗ってくれと度々いふのであった。私はその度びに固く断はつてゐた。その頃私は小林全集の仕事をしてゐたし、そういろいろやれぬといふのが中條に対する辞退の口実であったが、一方コップから度々同じ話があり、小林以来、私はすでに明らかにしてゐる態度に基いて……
 (これはあとへ別に書いておくつもりだが、小林は出獄早々の私をよび出しての話に、作家同盟内のフラグ(F)たる鹿地と対立し、自己の方針を伝へることができなくなつて、私を中央部へ入れ、鹿地に当らせようとした。 F(*一般組織の中の共産党秘密党員)でない人間をFである人間にあたらせるために使ふといふのは組織的に大きな間違ひで、そんなことよりもまづ鹿地の組織的処置が先決問題だといつて私ははねつけた。 それから十日程して小林は殺され、杉本、池田(*池田寿夫)といふ風に書記長は変ったが、依然としてかれらは作同中央部に蟠る鹿地ブロックを処置できず、唯やたらに私とか、坂井のやうな人間を中央部へ入れて牽制しょうとした。私はしまひには書記局の、随って党の、無力を度々嘲笑した。)
 ……ことはりつづけ、遂にこの時、(三四年一月)まではいらなかつたのだが、この時にはすでに情勢が一変してしまつたゐた。
 鹿地側についていへば佐野はやられてかへらず、川口は田舎へにげてかへり、山田は執行猶予政策と称して、中央部の会合に顔をみせず、その他の鹿地系の中央常任はたいてい退却してしまつて、今では鹿地は漸く鈴木清と共働してゐるのみであった。そこへ鈴木から私の解散意見をきき、鹿地自身さういふ個人的意見を持ってゐたのをやはり党に抑止せられ不承々々分散的形態への転換の方針を主張してゐた折柄なので、今では私を入れてもあぶなくないとわかつたので、貴司の中常委会入りにやつと賛成した。
 一方私の方からいふと、解体方針を作同内でだけでも実現させたい、そのためには中常委会へはいる必要がある、こと、及び鹿地の書いたパンフレットによつて、小林以来の政治主義的偏向といふものがかなり深く私にも肯けるので、Fのくせに党と対立したいといふことをいつまでもかれについて責めてゐても始まらないので、鹿地のやうな男とでも、とにかく共働して、作同解散を実現したい。−−と思ったので、十二月三十一日の夜、訪ねてきた中條に、中央常任委員会入りを通告した。
 一月に入ってから、中常委会が二三回か、私の宅で開かれた。ところが、こゝで鹿地は、間もなく解散(五、六月頃)しなければならなくなるだらうが、それは向ふからするまでじっとしてゐる方がいゝので、今は分散的活動に転換するんだといふコップの方針を主張して、どうしても譲らない。私は何時間も鹿地に対抗して自分の説を主張したが、鹿地は頑強に抵抗して動こうとしなかつた。他のものも、もし私に賛成すれば、とんでもない責任が生じてくるのだから、とにかく表面無事な鹿地説を支持した。
 二度目、三度目と会合が重なる度に日がたち、分散的形態へ移行するよりも先きに、コップの組織が合法性を失ふ時期が明確に迫ってきた。私はあきずに、情勢の判明に応じて何度も自説をくり返し、一月三十日の会合ではその日の朝刊に(朝日新聞)発表された治維法改正案を持出して、もう一ペん皆を説得してみようとしてゐて、その会合の一時間前に検挙されたのである。

●私は作家としてどこまでも合法圏内にくひ下って行かねばならぬ

 以上長々と経過や心境を書きつけたが、私はこれらの経過により、留置場内で結局次ぎのやうな一定の考へに到達した。

一、こゝ数年間に、クーデーターか、平和的漸進的手段でか、日本の資本主義支配は軍部を中心とするファシスト的、国家社会主義的政治形態にうつる。イタリー、ドイツに近い状態となる。
二、その時、プロレタリア作家の団体はおろか個別的、合法的存存すら不可能となる。その時は自由主義的進歩的傾向の作家及び作品が、辛うじて合法的存在を維持するだけだらう。
三、私は作家としてどこまでも合法圏内にくひ下って行かねばならぬ。そのためには自分の作家的位置を「二」の区域にまで今から退却させておく必要かある。
四、勿論今すぐ百パーセントの単なる進歩的傾向の作品しかかゝぬ作家へ転身するといふのではない。合法的な範囲のプロレタリア小説を書くことに、なるべく長くつとめて努力しなければならぬ。しかし、自分は今すぐプロレタリア文学運動から脱し、プロレタリア文学理論による創作や主張から離れるといふことを大胆に社会的に声明しなければならぬ。かくして軍部的ファシスト的国家の中で十年、二十年の活動に耐える合法的地盤を今すぐ作るべくとりかゝらねばならぬ。
五、政治的には、党支持者としての従来公に知られてゐる立場を公然ととり消すこと。そして将来の自分の政治的立場は単に現在の政府の進歩的政策を支持し、その反対の政策を排撃するといふ個人的立場に止まること。(主として外交政策の問題に関連す。北鉄譲受、不侵条約諦結、軍縮、非戦等々、暗々裡にはソヴエート外交政策の日本国内における支持者の立場。)
六、場合によつては党の批判を公にする。ことにシンパとしての自分の経験及び作家としての自分か党の影響下にゐなくとも今後の仕事に耐えるといふ立場において。これは必ずしも実行しなくてもいゝが、実行したからとて、反動的なやり方ではない。
七、今後の自分の文学上の立場を新写実主義と名づけて、社会主義的リアリズムと区別して行く。

 大体以上を結論的にまとめるのに、私は留置場内で二日、三日をすごした。考へがまとまつてからも急に口外したくなくて、一週間程、私は留置場の中で憂鬱に閉ざされて、殆ど口をきかずにゐた。
 この考へに到達したことが憂鬱だつたのではない。それはむしろ、身内に勇気をおぼえる位で、この結論の内の将来に関する部分は、明らかに私の積極的な亢奮をさそった。人は亢奮すれば沈黙するものである。それは自分の仕事の上の大きな転換をだれよりも先きに警察官吏に話さねばならぬといふこと、又それを條件として釈放を求めるといふこと、引きつゞいて裁判所の法廷においても同様の措置をとらねばならぬといふこと−−これがひどく私を憂鬱の中にとぢこめた。
 おまけに、私の転換は今すぐでは少し時期が早いのである。
 私の転換が明かになれば友人やその他が色々といふだらう。それに対して、私のしたことが単に臆病のためではなく(臆病はほんの三分だ)十年も二十年も先きのための、つまりは一生をなげこんだ仕事のための大がゝりな準備であるとは公言できず、かれらの浅墓な非難にたゞ沈黙してゐなければならぬといふこと。それは何でもないことのやうであって、その実、人間はどんなけちな相手からでも誤解されることは苦しいことだといふことを私に味はせるのである。
 私はこのやうな転換を一月の中旬にやうやく腹の中に決心したのだった。その時はこゝまでまとまらず、決心のし振りは、単に懲役に行くのをやめ、執行猶予にならうといふのであった。そのために、どこまで自分が退却し、どれだけのことについて、「我、かれを知らず」といはねばならぬかは、ほゞ見当がついてゐた。
 たゞその時自分のなすべき文学上の仕事に対する明確な判断、見通しがまだ立ってゐなかつた。
 留置場の中では、今後は逆にその仕事のプログラムを組立てることから、他の進退の措置へと考へ及ばして行って、一定の段階に達したのだ。
 私が一月の中旬に、刑務所行きをやめる−−流行語のいわゆる「転向」を決意した時から、この時までの行動や判断には、こゝへのべたやうな一聯の現実の種々相が細かく反映してゐるわけである。
 私は自分の進退を、自分の性格や能力相応に決した点ではちつとも間違ってゐないと自信してゐる。で、留置場で十日はどたったころ、二三日目毎に面会にきてゐる妻に、私は大体私自身の今後の仕事のやり方と、転換の決心とを話した。そしてかの女の意向をきいてみた。勿論かの女に私以上の名判断がある筈もなし、又しひて私の考へに反対するやうな女でもないことは、私自身がよく知ってゐる。しかし、私は自分の決心はやはりだれよりも先きに、妻に話しかの女をまっさきに納得をさせてからでなければ、他へ話す気にはなれなかつた。
 尤も話をするにしても、特高主任の傍でその監視つきの中で話すわけである。敏感でかしこいこゝの特高主任は、私の話をすつかりきいてしまつた。
 私の妻は「あなた自身の考へをいつてごらん」と私にいはれて「そうしたらええわ。」と答え「その方がええ。」とあとからいつた。
 あとの言葉は自分や子供のこと、大阪で心配してゐる母のことを考へていつたことである。
 妻がかへったあとで、特高主任は、あんなよけいなことを話して奥さんに心配かけない方がいゝぢやないかといふ意味のことをいつた。私はそうぢやないのだ、といつて、夫の一身上の一番重要な問題はまづ妻に話すのが人倫の大本だと逆に少しばかり説教してやった。それにあの話は妻を一時も早く安心させるためだといひそえた。
「ぢや奥さんは今まで何もしらなかつたのかい?」
 と主任は不審そうにきいた。
「まだ話してなかつた。」
 と私は答えた。
 この時に、普通の人間としてはごくまじめなタチのこゝの特高主任は、私といふ人間に対してかれの頭の働き方にはまった律儀な考へ方の上で、一定の見方をもつやうなになつた。その証拠に、その日からかれは私に対してぞんざいな口をきかなくなり、態度がひどく丁重になつた。勿論、私が「転向」したことを喜んでゐる警察官吏根性もそこに加はってゐるのはいふ迄もない。

●釈放までの顛末

 その翌日だったか、かれは私をよび出して、きのふ奥さんにいつてゐた趣旨をもう一度よく話してみろ−−と切り出した。私は右にかいたやうな結論をのべ、尚補足的にコップの解体運動に骨を折ってゐたが、検挙されたゝめに折角のことがおじゃんになつたといつた。
 するとかれは意外な表情をして、こゝへ来るか鈴木さん(警視庁の文化団体係)の所へ行って、自分のしてゐることをよく話しておけば、引つぱりはしなかつたのに−−と残念そうにいつた。
 これはいけないと思ったので、自分は自分たち仲間のために自発的解散を主張してゐたので、その結果が、たとえそつちにとつて都合のいゝことであらうと、事前に申し出ておいてやることは絶対にできないのだと答えたところ、そんなことはないではないか、とか、へんな見栄を捨てなければとかいふので、自分はきつばりと、「そんなことをすれば、スパイである!」と大きな声でいつたので、相手はもう黙ってしまつた。
 それから一両日して、たしか検挙されて二週間だったかに、よび出されて「手記」を書くことをいひつけられた。
 これは一寸意外に思った。警察が手記を書かせるのは、調べが終ってからにきまってゐる。私はこゝの主任からちつと座談的に、きかれたゞけで、去年一年間にしたさまざまなことを調べるのには、本庁から警部鈴木がくる筈だった。その鈴木がこないで、いきなり手記をかゝせるのである。私はしっこく訊ねてみたが、鈴木と打合せてさうしてゐるらしかつた。又そうでなければ、ここだけが独断でそんな風にする筈はない。それでわかつてきたのは、向ふではあえて深く調べようとはしないのだ。
 目的は予期の通り「転向強要」にあるらしい。しかし私にすればこゝへきて強要されずとも、社会的に四方八方から、方向転換−−退却−−を余儀なくされてしまってゐる。
 警察の手記を書くのも、原則的にいへば、書かない方がいゝのはわかり切ってゐる。しかし私の今後の合法的の基礎をかたくしてそこでせめてもの、できる範囲のいゝ仕事をするためには、今手記を書き、その中へ掛値のないきりきりの退却の区域を、明瞭に文章化しておく必要があるのだ。どうせ、情勢はますます悪化して、今日何でもなかつたことが、明日もはや禁遏されるといふ例がきつととび出すに相違ないのだ。その時、御都合通りにいくらでも押しこまれ、退かされるやうな場合、一応も二応も抗争するその根拠となるもの、先方でもハツキリ認め、それを條件にして合法性をよこしたところの、不侵條約的手記を書いておく必要がある。
 その外、小林多喜二との会見、すでにバレてゐる筈の金属(*全協金属労組)の関係、赤旗購読の範囲等は、こゝで潔く「清算」さへすれば、合法性をうることになり、創作等に書いても差支ないことになる。それらはなるべく手記に書いておかなければならぬ。退却し、妥協し、合法的な範囲の仕事の自由をうるための「手記」だ。
 私はその意味で考へ考へその日から手記の執筆を始めた。−−それは完了までに約二週間かゝつた。私が毎日特高室へ出て手記を書いてゐる間、留置場の中では一斉ハンストの計画が持ち上り、これが大変な騒ぎになった。一方私自身の家庭ではどうにもならない事件、大阪にゐる母の死が迫ってきた。そのため妻と相談の上、母が意識がなくなってしまはない内に、かの女だけ十日くらゐの予定で大阪へ行ってくるといふことにした。
 私の「転向」の消極的な原因の一つはこの母の死だつた。私は自分が入獄中、家族を母にあづけておく積りでゐた。それは十二月に大阪で母にあひ、その外に方法がないことを話してよくたのみ、母も快くそれを引きうけてくれてゐたのである。
 ところが、その時母の顔色がどうもひどく悪く何となく影がうすかつた。母は私たちが大阪を出発する時、梅田駅へ送ってきてくれ汽車が動き出しても、長くプラットの上に立ってこちらを眺めてゐた。
 それから母はその足で帝塚山のよしちやん夫婦の家へ赴き、まもなく発病してたふれ、胃癌だと診断され、その死期は三月いっぱいだとの宣告をうけてしまつたのである。母がゐなくなってしまひ、生活資料と生活能力のない妻と子を托するに所がなくなつてしまふことを考へると私ははたと当惑した。
 このことが、もし私が入獄すれば、私自身には今まで予想しなかったかなり大きな犠牲だと考へられた。それでも−−恐らく私は出てきてプロレタリア文学がやれる世の中であったならば、何とかしたであらう。そうでないことが、母の死−−家族の困惑といふ事情にかなり作用して私の気持を抑へた。
 妻は二月下旬から三月上旬の間、十日ばかり、共治と女中を平井君(*ロシア文学者平井肇)の家へあづけておいて、大阪へ行った。
 −−かの女は私がまだ手記を書いてゐるところへ、帰ってきた。かの女は大阪へ行って妹に切ってもらつたといつて、断髪にしてしまってゐた。
 毎朝髪を結ふのが、病気の妻にはかなり荷厄介なことで、断髪にしたかつたらしいのを、そうすればおでこがとび出していやらしいといふことと、頭がうすくなって、年よりもずっとふけてゐる私と、年よりもずっと若くみえる妻との年齢の差が一層著しいやうにみえて、私にいゝ気持がしなかったのとで、今までとめてゐたのだが、今は勝手に剪ってしまったのだ。しかし、私は別に腹は立たなかった。剪ってみるとそんなに恰好が悪くはなかったのと、何となくかの女の体の弱ってゐるのが目につくのとで、むしろ、私は髪を剪ってきた妻からいゝことをしたやうな印象をうけた。かの女は母の病状を語り、母が自分の死をさとって、自分の持ってゐる株券とか貯金とかの大部分をかの女と共治とにゆずるといってゐることなどを私に伝へた。
 私はそれをきいて、いつも何の意見もなく黙ってゐる母の一つの性格をみたやうに思った。何だか私自身が自分のことや仕事のことだけをあまり中心に考へすぎてこれまで妻や子供に対する親の愛情といふものを欠いてゐたやうな苛責の念にうたれた。
 とにかく、私は一日も早く手記を書き上げてしまひそれによつて先方の「取調べ」をすましてこゝを出、母の死に目に間にあふやうに大阪へ出かけたいと、少しそのことであせり気味になった。
 それから二日目かに私は手記を終った。それはまだ下書の草稿なので、それを警視庁の鈴木の所へ送り、かれが「満足」したら、私が「釈放」されるといふ順序なのである。
 草稿を、特高主任に渡して五日目かに妻が面会にきたゝめ、留置場から特高室へ出てきた際、私は鈴木警部が自分の手記に対して何といったか? ときいてみた。すると、特高主任は俄に不機嫌な顔をして
「いゝかげんなものは見る必要がないといふので、まだ送らずおいてある。」
 との返事である。
「ぢや僕の手記のどこがいゝかげんなのか?」
 ときくと相手は黙ってゐるのである。私は前後の様子から、こゝの特高主任が、私の手記ができ上ったといふことを鈴木に報告したら、向ふでは「そちらで十分責任が持てるなら送ってよこせ」といつたゝめ、もし「十分なもの」でなかつたら、困るので忽ち小さな役人根性に返りチギ(遅疑)してまだ送らずにゐるらしいことがわかったので、何とかして、それを警視庁へ送らせるやうしにしようと思ひ、少し態度を改めて至極真剣な少し憤慨した調子になり
「自分の手記をあやぶんでとめおいとくといふのは、世界の何大強国の一つたる日本帝国を代表する警察らしくもないケチなやり方ぢゃないか。もし僕が手記の内容をゴマ化して君の顔をつぶせば、君はどんな風にでも僕をいぢめることのできる警察でないのか。男らしくやり給へ。」
 これで効果は百パーセントだった。
 草間といふこゝの主任は、信州の小さな大名の家老の家筋でかれ自身はキリストの篤信家を標傍し、几帳面で小心で、しかし、此の種の官吏の中では「人格」的な男だった。私の言葉がかれのこの「人格」にぴんとひゞき、又警察官吏としての「自尊心」にひゞいたらしく
「ぢや、君はまさか三文官吏たるおれの顔をつぶしはしないね。」
 と念をおして、机の曳出しから分厚い私の手記草稿をとり出し、
「紳士協約を結ぶね。それなら今からすぐ送るよ」
 と、かれは私と私の妻とのみてゐる前で、それを本庁へ送るやうにと下僚にいひつけた。
 それから一週間ほど、私はずっと留置場に座ってゐて、あまり外へ出る折はなかつた。ある日の夕暮、妻が面会にきたにしてはへんに遅い時刻だと思ひつゝ、よび出されて出て行ってみると、もう電燈がついてゐるのに、草間特高主任は、私の手記草稿を手にして、ご楼嫌なゝめならず
「おい、及第したよ、これでゐゝから、早速清書をして出してくれ給へ、出来次第君を帰すからね、出すときまったら、少しでも早く清書をすますやうにして上げないと、気の毒だと思ったのでよび出したんだ。」
 といふのである。かれは自分の顔が立ったのである。
 それにしても、私は奇異な思ひにうたれた。二た月近く拘留されて (形式は検束の連続)一度も、何も「調べ」られることなく、「手記」を書いて、放たれるといふのだ。しかし、それは形式上の警察の習慣に反するから奇異に感ずるだけで、鈴木警部といふ特高の官吏はなかなかやり手だといふことになるのかもしれない。
 私は「清書」に二日か三日かかを要した。しかしそれが出来上ると、今度は解散後の「プロレタリア文学」といふ論文を一つ書いて出せ、と鈴木からいってきたといふので、又一日それをかゝせられた。それがすむと、検事局で釈放しろといはないといつて、急にかへそうとしないのである。特高主任は私との紳士協約の手前、それでは悪いといふことを知ってゐるらしく、私のみてゐる前でも、電話で本庁の鈴木と盛に、私の釈放を交渉してゐるのである。どうしたのか鈴木は検事局の意向云々をどこまでも楯にとり、ではどうしたらいゝのかと草間がきくと、結局私が自分の政治的、文学的転向退却をどこかの有力な新聞か雑誌かに発表するのをみとどけた上、私を釈放する方がいゝ−−それが検事の意見だといふのである。
 私は面会に来た妻にいひつけて、弁護士同道で検事局へ交渉にやった。すると鈴木の嘘がバレた。
 検事局では私が検挙されてゐることすら知らないといふ。弁護士は妻をつれ、警視庁へ行って鈴木に面会してそのことをいふと、鈴木は大いに周章して大へん曖昧な返事ばかりしたが、とにかく、新聞に発表するやうな原稿は、自宅でなければ書けないのだから(警察に検挙されてゐるものに、そこで商品原稿を書く自由を与へていゝといふことは先方の規律に反することだといふ意味で)すぐにも釈放してくれなければ、お望み通りはからふことができない。かつ大阪の母が危篤なのだから釈放され次第すぐにそこへかけつけなければならぬ状態だから−−といふことを弁護士もいひ自分もいったと妻がやってきて話すのである。
 勿論それは傍にゐる主任もきいてゐる。
「とにかく小ぎたなくチビチビいぢめをしなくてももつと気を大きく持ったらどうかと鈴木氏に伝言してもらひたいな」
 と私は主任にいった。
「いや、警部級の偉い人達でも、みんなそんなもんなのだ。しかし何とか骨折る。」
 と主任は不愉快さうにいつた。
 それが、きのふのことであった。けふ午前十一時ごろ私は特高室へよび出された。そこには主任だけゐて、何事かに亢奮しており、
「君、おれがひきうけるから、すぐにかへれよ。」
 といふのである。その調子が何だか変なので「一体どうしたんですか」ときいた。主任はしばらく「上司といふものは、もつと見識があっていゝ」とか「そんな不謹慎なことで、どうなる」とかブツブツいってゐたが
「何とかラチをあけて上げようと思って今朝又電話をかけたら、おれはしらん、そんなにしたいなら、検事局へ直接かけ合へっていふ返事さ。人間一人二た月もひっぱっておいてそんな無責任なやり方があるもんか……おれァすぐムカッ腹で、検事局へ電話をかけ、係りの警部の鈴木さんはおれはしらんといふのですが、内容はこれこれで、母親が死にかけてゐたりして事情は気の毒だし、私の方としてはこれ以上身柄を預っとく必要はないやうに思ふんですが、御意見はいかゞでせう? ってきいたら、鈴木氏からはまだ何もきてゐないが、手記は廻ってきてゐる、但まだよんでない。しかし、そんなやうなら返した方がいゝと思ひますね、との返事なのさ。−−検事局は返せといふが、どうするかつて今本庁へ電話をかけたら、どうも君は少し骨を折りすぎる。ぢや君にまかすから、いゝやうにしたまへっていふ返事さ。ああ! だから、いゝからかへりたまへ君!」
 と主任はまだ亢奮してかれらの内幕をさらけ出してしやべるのである。私は午後にこゝへやってくる妻と行違ひにならんやうに、それまで手記の要所のうつしをとる仕事をするからといつて、逆にこの主任をなだめ乍ら夕方まで、うつしをとるのにかゝつた。その間に妻はやってきた。夕方にかへるから、湯をわかしておいてくれるやうにといつて、妻のかへったあと、私はうつしをとるのに馬力をかけ、灯がつくころにやつと終った。
 それから、かえる前に、この十日はど前から又更めて検挙されてきてゐる鹿地亘をよび出してきてもらひ、一時間ほど、作家同盟解散の顛末……
 (私が二た月こゝにゐる間に、鹿地は党に向って解散説をとほし、三月上旬に同盟を解散し、その声明書をかれが執筆したといふのであるが、その際党といろいろ交渉し、書いたものも手渡したので−−それが二月末〆切の再登録の履歴書だった−−もしそれが向ふの手に入ってゐれば萬事休すなのだが、その時は、自分は最後の覚悟をきめてゐるとかれはいってゐた。最後の覚悟とは転向の声明のことらしかった。)
 ……やら、今後の仕事のやり方やらについて話しあって、予定より少しおそくなって家へかへってきた。
 二た月逢はない子供が、ねてしまはない間にかへらうと思ったが、鹿地と話したゝめにおくれ、あはててかけつけるやうに、吉祥寺駅を下りて、家の玄関までかへり、ドアをあけると、共治は丁度メシを食ってゐたのが、ママや女中に椅子からかゝえ下ろされて、玄関にとび出してきた。
「パパよ、パパよ」
 と妻や女中がわいわいハタからいつたので、かれはびつくりして目を丸くし、忘れてはゐないらしかったが、恥かしいのと、まだ見定めがつかぬのとで、赤い顔をして、みつめてゐたが、私が上へあがってオーバをぬいだ時に、私の顔をみて笑ひ出した。やつと見当がついたのである。しかし、手を出してやっても、よってはこなかった。
「こんなに髪がのびてゐるぢゃないか、まるで病気の子供みたいにみえる。」
 と私は子供の頭をなでて、妻にいった。子供はそんなに前と変らなかつたが、二た月の間に顔が一段と大人びてゐる。私は湯にはいって飯をくひ、留守中の手紙の類をざっと眼をとほして、「今帰宅した」といふことを知らせる大阪への手紙を二三通書いた。
 それを書いてゐると疲れてきたので、眠ることにした。 (1934年3月26日の項終わり)  TOPへ